1939年から1950年代後半までとは? わかりやすく解説

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1939年から1950年代後半まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 04:14 UTC 版)

キャサリン・ダナム」の記事における「1939年から1950年代後半まで」の解説

1939年ダナム舞踊団シカゴシンシナティでも公演行いその後ニューヨーク戻ったダナムは、 国際婦人服労働組合プロデュースしたロングラン中の人気ミュージカル・レヴュー Pins and Needles 1940新しナンバー振付依頼されていた。この舞台ウィンザー劇場続いている間、ダナム日曜日にこの劇場自身舞踊団公演行った舞台は『熱帯Tropics)』『ル・ホット・ジャズ(Le Hot Jazz)』と銘打たれ、気の合うパートナーであるアーチー・サヴェージ、タリー・ビーティーの他、ハイチ人のドラマー、パパ・オーガスティンも出演した当初1回公演予定だったが、評判呼び、さらに10回の公演打った。 この成功受けて舞踊団は、ジョージ・バランシン振付、 エセル・ウォーターズ主演ブロードウェイ・ミュージカル『キャビン・イン・ザ・スカイ(Cabin in the Sky)』に出演ダナム蠱惑的ジョージア・ブラウンの役を艶めかしく演じ公演ニューヨークで20週間続いた続いて西海岸でもこの舞台評判となり、追加公演が行われた。この舞台マスメディアちょっとした論争引き起こした。 『キャビン・イン・ザ・スカイ』の全国ツアー後、ダナム舞踊団ロサンゼルス滞在しワーナーブラザーズ短編映画『カーニヴァル・オヴ・リズム(Carnival of Rhythm)』(1941年)に出演翌年アメリカ第二次世界大戦参戦しダナムパラマウントミュージカル映画 Star Spangled Rhythm1942年)のスペシャル・ナンバー Sharp as a Tack に、エディ・”ロチェスター”・アンダーソンとともに出演した。この時期には他にも、アボットとコステロコメディ映画凸凹宝島騒動Pardon My Sarong)』(1942年)、きら星のような俳優ミュージシャンダンサーたちが顔を揃えた黒人ミュージカル映画ストーミー・ウェザーStormy Weather)』(1943年)にダンサーとして出演している。 舞踊団ニューヨークに戻ると、1943年9月興行師ソル・ヒューロックのマネジメントにより、 マーティン・ベック劇場で『トロピカル・レヴュー(Tropical Review)』を上演する南米カリブ活き活きとしたダンス、プランテーション・ダンス(北南米植民地奴隷による踊り)、アメリカ社交ダンスをたっぷり見せるこの舞台直ち評判呼んだ当初2週間だった契約は3か月延長され、さらにアメリカとカナダをまわるツアー組まれた。当時保守主義中枢であったボストンでは、1944年にわずか1度の上演で舞台差し止められた。観客には好評だったが、現地検閲官は、露出の多い衣装扇情的なダンス公衆道徳損ないかねない判断したのであるツアー後の1945年ダナム舞踊団ニューヨークベラスコ劇場Blue Holiday に、次いでアデルフィ劇場で Carib Song出演した短命に終わった前者よりも評判集めたこの舞台第1幕フィナーレヴォドゥン儀礼舞台用仕立てたシャンゴ」で、これは舞踊団恒久的なレパートリー一つとなった1946年ダナムブロードウェイ戻りレヴュー Balgre出演した。この舞台演劇ダンス評論家たちから熱い賛辞受けた1947年初頭にはミュージカル Windy City振付行いシカゴグレート・ノーザン劇場初演された。この年後半ダナムラスベガスでキャバレー・ショーをスタートさせた。これはラスベガスギャンブルの街であるのみならず大衆的なエンターテインメントそのものになった年である。またこの年ダナム舞踊団としてメキシコ訪れると、人気集め、2か月超える公演となったメキシコ続いてヨーロッパ・ツアー始まり、ここでもたちまち反響呼んだ1948年、まずロンドンのプリンス・オヴ・ウェールズ劇場で『カリビアン・ラプソディ(Caribbean Rhapsody)』を初演、そしてパリシャンゼリゼ劇場巡演した。 以後20年以上に渡りダナムとその舞踊団はほとんどアメリカ国外活動したこの間ダナム舞踊団ヨーロッパ北アフリカ南アメリカオーストラリア、および東アジアの約33か国を訪れている。ダナム多数新作生み出し続け舞踊団はどの都市においても観客から熱烈な反応受けたこうした成功にもかかわらず舞踊団はしばし財政難陥ったダナム3040人ものダンサーおよびミュージシャン抱えていたのであるダナムとその舞踊団は、トニー・マーティンイヴォンヌ・デ・カーロピーター・ローレと共にハリウッド映画カスバCasbah)』(1948年)に、またディノ・デ・ラウレンティスプロデュースしたイタリア映画 Botta e Risposta に出演。また同年NBC放映したアメリカ初の1時間ものテレビ番組出演した。これはテレビアメリカ全土広まり始めた時期にあたる。続いてロンドンブエノスアイレストロントシドニーメキシコシティなどで撮影されテレビ番組にも出ている。 1950年、ソル・ヒューロックは、キャサリン・ダナムとその舞踊団によるダンス・レヴューをニューヨークブロードウェイ劇場上演した。これはダナム傑作集であったにもかかわらず、わずか38の上演で打ち切られた。舞踊団はただちに南アメリカヨーロッパ北アフリカツアー出発しとりわけデンマークフランスで成功収めた1950年代半ばダナムとその舞踊団3本映画出演している。イタリア映画マンボMambo)』(1954年)、ドイツ映画 Die Grosse Starparade (1954年)。メキシコシティ製作されたMúsica en la Noche1955年)である。

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