1939年から1950年代後半まで
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「キャサリン・ダナム」の記事における「1939年から1950年代後半まで」の解説
1939年、ダナム舞踊団はシカゴとシンシナティでも公演を行い、その後ニューヨークに戻った。 ダナムは、 国際婦人服労働組合がプロデュースした、ロングラン中の人気ミュージカル・レヴュー Pins and Needles 1940 の新しいナンバーの振付を依頼されていた。この舞台がウィンザー劇場で続いている間、ダナムは日曜日にこの劇場で自身の舞踊団の公演を行った。舞台は『熱帯(Tropics)』『ル・ホット・ジャズ(Le Hot Jazz)』と銘打たれ、気の合うパートナーであるアーチー・サヴェージ、タリー・ビーティーの他、ハイチ人のドラマー、パパ・オーガスティンも出演した。当初は1回公演の予定だったが、評判を呼び、さらに10回の公演を打った。 この成功を受けて舞踊団は、ジョージ・バランシン振付、 エセル・ウォーターズ主演のブロードウェイ・ミュージカル『キャビン・イン・ザ・スカイ(Cabin in the Sky)』に出演。ダナムが蠱惑的なジョージア・ブラウンの役を艶めかしく演じ、公演はニューヨークで20週間続いた。続いて西海岸でもこの舞台は評判となり、追加公演が行われた。この舞台はマスメディアでちょっとした論争を引き起こした。 『キャビン・イン・ザ・スカイ』の全国ツアー後、ダナム舞踊団はロサンゼルスに滞在し、 ワーナーブラザーズの短編映画『カーニヴァル・オヴ・リズム(Carnival of Rhythm)』(1941年)に出演。 翌年、アメリカは第二次世界大戦に参戦し、ダナムはパラマウントのミュージカル映画 Star Spangled Rhythm(1942年)のスペシャル・ナンバー Sharp as a Tack に、エディ・”ロチェスター”・アンダーソンとともに出演した。この時期には他にも、アボットとコステロのコメディ映画『凸凹宝島騒動(Pardon My Sarong)』(1942年)、きら星のような俳優、ミュージシャン、ダンサーたちが顔を揃えた黒人ミュージカル映画『ストーミー・ウェザー(Stormy Weather)』(1943年)にダンサーとして出演している。 舞踊団はニューヨークに戻ると、1943年9月、興行師ソル・ヒューロックのマネジメントにより、 マーティン・ベック劇場で『トロピカル・レヴュー(Tropical Review)』を上演する。南米やカリブの活き活きとしたダンス、プランテーション・ダンス(北南米の植民地奴隷による踊り)、アメリカの社交ダンスをたっぷり見せるこの舞台は直ちに評判を呼んだ。当初2週間だった契約は3か月に延長され、さらにアメリカとカナダをまわるツアーも組まれた。当時、保守主義の中枢であったボストンでは、1944年にわずか1度の上演で舞台は差し止められた。観客には好評だったが、現地の検閲官は、露出の多い衣装や扇情的なダンスが公衆道徳を損ないかねないと判断したのである。ツアー後の1945年、ダナム舞踊団はニューヨークのベラスコ劇場で Blue Holiday に、次いでアデルフィ劇場で Carib Song に出演した。短命に終わった前者よりも評判を集めたこの舞台の第1幕フィナーレがヴォドゥンの儀礼を舞台用に仕立てた「シャンゴ」で、これは舞踊団の恒久的なレパートリーの一つとなった。 1946年、ダナムはブロードウェイに戻り、レヴュー Bal Nègre に出演した。この舞台は演劇やダンスの評論家たちから熱い賛辞を受けた。1947年初頭にはミュージカル Windy City の振付を行い、シカゴのグレート・ノーザン劇場で初演された。この年の後半、ダナムはラスベガスでキャバレー・ショーをスタートさせた。これはラスベガスがギャンブルの街であるのみならず、大衆的なエンターテインメントそのものになった年である。またこの年ダナムが舞踊団としてメキシコを訪れると、人気を集め、2か月を超える公演となった。メキシコに続いてはヨーロッパ・ツアーが始まり、ここでもたちまち反響を呼んだ。1948年、まずロンドンのプリンス・オヴ・ウェールズ劇場で『カリビアン・ラプソディ(Caribbean Rhapsody)』を初演、そしてパリのシャンゼリゼ劇場に巡演した。 以後20年以上に渡り、ダナムとその舞踊団はほとんどアメリカ国外で活動した。この間、ダナム舞踊団はヨーロッパ、北アフリカ、南アメリカ、オーストラリア、および東アジアの約33か国を訪れている。ダナムは多数の新作を生み出し続け、舞踊団はどの都市においても観客から熱烈な反応を受けた。こうした成功にもかかわらず、舞踊団はしばしば財政難に陥った。ダナムは30〜40人ものダンサーおよびミュージシャンを抱えていたのである。 ダナムとその舞踊団は、トニー・マーティン 、 イヴォンヌ・デ・カーロ 、 ピーター・ローレと共にハリウッド映画『カスバ(Casbah)』(1948年)に、またディノ・デ・ラウレンティスがプロデュースしたイタリア映画 Botta e Risposta に出演。また同年、NBCが放映したアメリカ初の1時間ものテレビ番組に出演した。これはテレビがアメリカ全土に広まり始めた時期にあたる。続いて、ロンドン、ブエノスアイレス、トロント、シドニー、メキシコシティなどで撮影されたテレビ番組にも出ている。 1950年、ソル・ヒューロックは、キャサリン・ダナムとその舞踊団によるダンス・レヴューをニューヨークのブロードウェイ劇場で上演した。これはダナムの傑作集であったにもかかわらず、わずか38回の上演で打ち切られた。舞踊団はただちに南アメリカ、ヨーロッパ、北アフリカのツアーに出発し、とりわけデンマークとフランスで成功を収めた。1950年代半ば、ダナムとその舞踊団は3本の映画に出演している。イタリア映画『マンボ(Mambo)』(1954年)、ドイツ映画 Die Grosse Starparade (1954年)。メキシコシティで製作されたMúsica en la Noche(1955年)である。
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