爆撃の首謀者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:26 UTC 版)
フランシスコ・フランコ独裁政権やフランコ派(フランキスタ)の学者は長らく、「ゲルニカの破壊はバスク人自らの手によるものである」とする主張を曲げなかった。フランコ独裁政権末期の1960年代末になるとようやく、フランコ派の歴史家リカルド・デ・ラ・シエルバ(スペイン語版)が「ゲルニカ爆撃はコンドル軍団によるものである」と認めたが、「ゲルニカ爆撃はドイツ軍が勝手に行ったことであり、フランコ軍は関与していなかった」との言葉を添えた。当時のフランコ政権は依然として歴史的な評価の行方に気を配っていたが、シエルバの主張の転換を妨げなかった。イギリス人のゴードン・トマス(英語版)とマックス・モーガン=ウィッツ(英語版)のふたりの著作家は、1976年に『Day Guernica Died』を出版し、32か国で2400万部を売り上げた。スペイン語訳は1977年に出版されたが、ゲルニカ爆撃の決定にフランコ軍が関与していないように改変されるなどし、原著者はスペイン語版の訳者と出版社に抗議を行った。多くの研究者は爆撃指令を下したのがドイツ軍であると考えてきたが、1977年、スペイン内戦やフランコ独裁時代を専門とする歴史家のハーバート・サウスワース(英語版)は、指令を下したのがフランコ軍の最高司令部であると結論付けた。1977年にはゲルニカ爆撃の学術調査委員会が設置され、デウスト大学が主導して調査が行われた。この際に調査団は政府の公文書館が保管する資料の公開を求め、政府が公開を拒否したことで論争となったが、結局フランコの法的責任は解明されずに調査が終了した。
※この「爆撃の首謀者」の解説は、「ゲルニカ爆撃」の解説の一部です。
「爆撃の首謀者」を含む「ゲルニカ爆撃」の記事については、「ゲルニカ爆撃」の概要を参照ください。
- 爆撃の首謀者のページへのリンク