爆撃後とは? わかりやすく解説

爆撃後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 00:42 UTC 版)

ラコニア号事件」の記事における「爆撃後」の解説

一方、U-507、U-506、カッペリーニ攻撃気づかないまま生存者救助続けていた。翌朝カッペリーニのマルコ・レベディン艦長Marco Revedin)は、U-156に収容されたはずの生存者が再び救助されたことに気がついた。1130分、レベディンは次のような通信受けたボルドーからカッペリーニへ:他の潜水艦攻撃受けたとの報告あり。攻撃受けた際に潜行を行う準備整えよ女性子供イタリア人を除く漂流者ボート乗せるように。それから座標0971副座標56向かいフランス艦に残り生存者を引き渡せイギリス人捕虜引き続き留置敵機および敵潜水艦対す警戒密にせよ。以上 U-507とU-506も司令部よりU-156攻撃の報告を受け、収容した生存者の数について報告求められた。U-507艦長シャハト491名を救助、うち女性15名、子供16名と報告した。U-506艦長ヴュルデマンは151名を救助、うち女性子供9名と報告した司令部イギリス人およびポーランド人全員下船させ、その地点マークし、さらにそのマークした地点留まることを生存者らに厳命した上で、各潜水艦ともフランス艦との合流地点急行するようにと命じた。しかし、いずれの艦長生存者下船させないことを決定したアセンション基地航空隊所属B-25爆撃機5機およびハーデン機は夜明けから夕暮れにかけて引き続き潜水艦捜索行った9月17日B-25のうち1機がラコニア号の救命ボート発見し、また商船エンパイア・ヘブン号に対して航空隊位置伝えられた。ハーデン機は女性および子供9名を含む生存者151名を甲板載せたU-506を確認すると、攻撃開始した最初の攻撃ハーデン機は爆弾投下失敗し同時にU-506は急速潜航開始した2度目攻撃では500 lb (227 kg)爆弾2発、350 lb (159 kg)爆雷2発が投下されたが、U-506に損傷与えることはできなかった。 同日フリータウンイギリス当局アセンション基地に対して、「3隻のフランス艦がダッカから出発した」という曖昧なメッセージ伝えたリチャードソンフランス軍アセンション島攻撃開始した解釈し、これに対応するために潜水艦狩り中止させた。 軽巡グロワール合流地点から60マイル (97 km)の地点イギリス人52名を救助した17日14時00分グロワール合流地点到達し通報艦アンナン、U-507、U-506との合流を果たす。U-507に留置されイギリス人士官2名以外の生存者全てフランス艦に移された。その後4時間でグロワール漂流していた救命ボート11隻を発見し生存者救助した2200分、もう1隻の救命ボート救助した後、アンナンとの合流地点向けて移動開始した18日1時00分、水平線に光が見えたため、グロワールアンナンとの合流取りやめて捜索再開し、さらに84名を救助したその後、9時30になってから改めアンナン合流しアンナンからグロワールへと生存者移動させた。最終的にイタリア人373名、ポーランド人70名、イギリス人597名が救出された。そのうち48名が女性ないし子供だった。21日グロワールダカールにて補給行い25日にはカサブランカ到着した。この時、イギリス側生存者代表したボールドウィン大佐が、グロワール艦長ガストン・エリー・グラツィアーニ大佐(Gaston Élie Graziani)に宛てて次のようなメッセージ伝えた。 我々は国王陛下陸海空軍および商船団の士官たる名の下に、また同時にポーランド分遣隊捕虜女性子供代わり、あなたの行い対する最も深い心から感謝お伝えしたい。あなたの艦と乗組員大変な困難を乗り越えて我々を、国王陛下輸送船ラコニア号の生存者迎えてくれたことへの感謝を。We the undersigned officers of His Majesty’s Navy, Army and Air Force and of the Merchant Navy, and also on behalf of the Polish detachment, the prisoners of war, the women and children, wish to express to you our deepest and sincerest gratitude for all you have done, at the cost of very great difficulties for your ship and her crew, in welcoming us, the survivors of His Majesty’s transport-ship, the Laconia. 一方カッペリーニフランス軍艦との合流失敗し確認報告求め無線通信行った上で待機していた。これを受けて派遣され通報艦デュモン・デュルヴィルは、その途中で9月12日撃沈されたイギリス輸送艦トレヴィレー(Trevilley)の生存者載せた救命ボート偶然に発見したため、付近他の生存者捜索行った9月20日デュモン・デュルヴィルカッペリーニ合流しイタリア人6名とイギリス士官2名を除く生存者全員移された。その後イタリア人生存者はさらにアンナンへと移され9月24日にはダカールにて下船したラコニア号に乗り込んでいた2,732名のうち、最終的に生き延びたのは1,113人だった。死亡した1,619名のうち、1,420名がイタリア人捕虜だった。

※この「爆撃後」の解説は、「ラコニア号事件」の解説の一部です。
「爆撃後」を含む「ラコニア号事件」の記事については、「ラコニア号事件」の概要を参照ください。

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