生い立ちと鉄道趣味
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 06:42 UTC 版)
祖先の騰雲と同じ名を冠した、台湾初となる清朝時代の鉄道車両騰雲号が二二八和平公園の国立台湾博物館前に展示され、曾祖父の以南は1908年の縦貫線全通に立ち会ったということ、祖父の長庚もカメラ愛好家だったことで幼くして自然と鉄道に興味を抱くようになった。5歳時には切符の収集を始め、10歳時にはその数が1,000に達したという。また、幼少時に日本の長崎から東京に至る鉄道旅行をしたという祖父の話を父から度々聞かされていた。中学時代には勉学に息詰まるとストレス解消とばかりに台北駅に出向いて列車を眺めていたという。 高校時代には淡水線が廃線となり、6年間の大学進学・徴兵を経て台北に戻ったときには縦貫線が地下化され、自身の愛した台北駅舎後站も無くなってしまった。 それらの消失を目の当たりにした衝撃は自身をさらに鉄道趣味に突き動かす契機となり、周囲が成長とともに鉄道趣味から離れていくなかでも、情熱は人一倍だった。台湾全土の旅客鉄道路線をくまなく乗り回し、趣のある古い駅舎を見ると都度下車したり、弁当の包装紙から紙コップ、時刻表に至るまでグッズの収集を続けた。 「撮り鉄」としても同様で、旅先で写真フィルムを使い切るほど撮影に没頭することが多く、やむなく駅で交換フィルムを調達していた。台鉄が「1年1路線」と言わんばかりに廃止路線を連発していたときは、その抵抗心からフル装備で列車を追いかけ撮影するほどだった。 — 蘋果日報における紹介文 台大在学時の1990年には日刊紙の中国時報で早くもコラムの連載を始めており、国内外の鉄道記事を執筆していた。(#外部リンク参照) 写真家としては、戒厳令下の台湾でリスクを厭わず数々の写真を撮影してきた国内鉄道趣味界における重鎮とされる古仁榮の薫陶を受けている。在学中に創設したサークル「火車社」では1993年に訪日旅行を計画したが、当時は徴兵前の男子学生は出国が困難だった。日本語に堪能で慶應義塾大学鉄道研究会の名誉会員だった古の助力により、慶応大からの招聘という名目で無事に日本入国を果たしている。 2005年には台大および台大火車社の後輩となる古庭維を鐵道情報のライターとして勧誘し、その後の共著も多い。 1990年代に廃止された台鉄旧山線については、歴史的意義という観点から観光振興目的でのレールバイク化には文化資産としての価値を毀損するものと批判的であり、蒸気機関車のリバイバル運転に際し、その排煙が環境保護の観点から批判を受けていることに対しても同様に無煙化の動きに反対している。
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