生い立ちと逮捕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 02:39 UTC 版)
「ロバート・フランクリン・ストラウド」の記事における「生い立ちと逮捕」の解説
1890年、ストラウドはワシントン州シアトルで生まれた。母親のエリザベス・ジェーン (英: Elizabeth Jane、旧姓:マッカートニー <英: McCartney>、1860年 - 1938年) と父親のベンジャミン・フランクリン・ストラウド (英: Benjamin Franklin Stroud) の間で生まれた子供の中では最年長だが、母親と前夫との間に2人の姉がいた。父親は虐待癖のあるアルコール中毒者だったことから、ストラウドは13歳で家出をしている。 その後、18歳になる頃にはアラスカのコードバでポン引きとなっている。その地で売春婦とダンスホールのショー演者として働いていた36歳のキティ・オブライエン (英: Kitty O’Brien) に出会う。そして、同州のジュノーに渡り、ストラウドはオブライエンのポン引きを行うようになった。19歳になる直前の1909年1月18日、知人でありバーテンダーのF・K・"チャーリー"・フォン・ダーマー (英: F. K. "Charlie" von Dahmer) と喧嘩の末、銃で撃って死亡させている。その経緯だが、フォン・ダーマーは売春の代金を踏み倒したあげく、オブライエンを殴り、さらにはオブライエンの娘の写真が入っていたロケットペンダントをその首から引きちぎったとされる。ストラウドは警察署に出頭し、凶器の銃を提出して自首している。警察の報告によると、ストラウドはフォン・ダーマーを殴って気絶させた後に至近距離で銃を発砲したという。 ストラウドの母親は弁護士を雇ったが、ストラウドは1909年8月23日に故殺で12年間の懲役が言い渡され、ピュージェット湾のマクニール島(英語版)にある連邦刑務所に収監された。なお、アラスカには当時、州法に基づく司法権がなかったため、ストラウドの事件は連邦の管轄となった。
※この「生い立ちと逮捕」の解説は、「ロバート・フランクリン・ストラウド」の解説の一部です。
「生い立ちと逮捕」を含む「ロバート・フランクリン・ストラウド」の記事については、「ロバート・フランクリン・ストラウド」の概要を参照ください。
- 生い立ちと逮捕のページへのリンク