生い立ちと自動車業界入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:12 UTC 版)
「フェルディナント・ポルシェ」の記事における「生い立ちと自動車業界入り」の解説
ポルシェという姓はスラヴの男子名ボリスラフから派生したと思われるが、東部開拓時代にドイツ家族に取り入れられた可能性もあり、その家族がスラヴの血を引いているとは限らない。 高祖父はヴェンツェル・ポルシェといい、現在チェコ領である北ベーメンで領主の小使いをしていた。その後一族は大工、樽作り、仕立て屋、織工、ブリキ細工屋などといった職人をしており、中には領主お抱えの者もいた。 父アントン・ポルシェは1845年にアルトハルツドルフに生まれ、年季奉公を済ますとオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあった北ボヘミアリベレツ近郊の町マッフェルスドルフ (Maffersdorf)、現在のヴラティスラヴィチェ・ナド・ニスウ(Vratislavice nad Nisou )でブリキ細工職人となり、1850年生まれのアンナ・エールリヒと1871年に結婚した。 フェルディナント・ポルシェはマッフェルスドルフで兄アントン・ポルシェ、姉ヘートヴィヒ・ポルシェに続く次男として生まれた。父アントンの仕事を継ぐはずだった兄アントンが徒弟奉公中に機械に巻き込まれて早世したため若い頃から父親の仕事を手伝っていたが、子供の頃から電気に興味を持って独学で実験を行なうなど単なる職人に留まらない好奇心を見せていた。亭主関白であった父親は最初頑な態度を取り、ブリキ細工に関係ないことは全て禁じたが、フェルディナントは一日12時間という厳しい労働の合間を縫って屋根裏で実験を続けた。母親はこれを黙認していた。 ある日父アントンはフェルディナントの計略を見破り、実験室になっていた屋根裏に押し入ったが、その際硫酸の入ったバッテリーを踏みつぶして長靴や肌をヤケドし、余計に腹を立てて厳しく罰した。母はウィーンの学校にやることを主張したが、父は妥協案としてライヒェンベルク国立工業高校の夜間部通学を許した。それでも父親は金属細工の仕事を継がせるつもりでいたが、自力で電源設備を製作し街で初めてまたは2番目に自宅に電灯を点したポルシェを見てその才能を認め、ウィーンに出ることを認めた。家業は弟で父アントン・ポルシェの4番目の子オスカー・ポルシェが継いだ。 1894年、首都ウィーンに出たポルシェは、電気機器会社ベーラ・エッガー(Béla Egger、現ブラウン)で働く傍ら、ウィーン工科大学の聴講生として熱心に学んだ。ベーラ・エッガーでは実習生でありながら技術的課題に対して第六感があると評され、また常に新しい自己独自のアイデアを持っていたため瞬く間に昇進、4年後には検査室長になった。すでにこの頃から自動車への関心を持ち始めており、モーターについての特許を1897年末に申請している。 電気自動車を手がけ始めていたウィーンの元・馬車メーカーのヤーコプ・ローナーの電気自動車がモーターの修理で入庫したのをきっかけに、1898年ヤーコプ・ローナーに引き抜かれて自動車開発を手がけることになった。この時わずか23歳であった。
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