生い立ちと裁判官時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 08:03 UTC 版)
1941年に岡山県上道郡財田村長岡に生まれる。岡山県立岡山朝日高等学校卒業後、1960年、東京大学文科一類に入学。 東京大学教養学部自治会委員長時代、大学管理制度改革に反発し、全学ストを決行。このストを指揮したため、1962年11月、退学処分が下った。 翌1963年9月、学生運動からの絶縁を宣言し、東京大学に復学。 法学部で丸山眞男の薫陶を受け、吉野作造の研究に従事しながら法律を勉強し、東大在学中の1965年に司法試験に合格(全受験者中席次は10番)。 1966年、東大法学部卒業後、第20期司法修習生。同期には横路孝弘、高村正彦、神崎武法、村井敏邦らがいる。 司法修習を経て1968年、判事補に任官し、東京、千葉、横浜各地方裁判所で判事補を務めた。 1969年、人事院留学制度により、黒田東彦、林康夫らと共にオックスフォード大学大学院法学部に留学し修士課程を修了。
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