クロアチア大使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/09 00:02 UTC 版)
「ジークフリート・カッシェ」の記事における「クロアチア大使」の解説
1941年4月から外交官として外務省に配属され、4月15日にクロアチア独立国駐在の大使に任命された。これは外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップが親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの外交的野望を阻もうとする突撃隊と手を組んで親衛隊の暴走に歯止めをかけるためであった 。4月20日にザグレブに到着し、クロアチア独立国におけるユーゴスラビアパルチザンに対する枢軸軍の共同活動を提唱した。またアンテ・パヴェリッチとウスタシャに対して好感を持っており、政策を擁護した。またクロアチア駐在軍政長官であるエトムント・グライゼ=ホルシュテナウ(Edmund Glaise-Horstenau)と対立した。1944年にクロアチア独立国を連合国軍側に参戦させようとするヴォキッチとロルコヴィッチの反乱(en:Lorković-Vokić plot)が失敗すると、ホルシュテナウが陰謀に関与したと中傷し軍政長官から解任させた。1944年4月18日に、 "クロアチアは、ユダヤ人問題が解決された国の一つである"とベルリンに報告している。 1941年7月17日に東部占領地域帝国管区モスクワ(Reichskommissariat Moskowien)の国家弁務官に任命されることが予定されていたが、東部戦線の戦況変化により任命されずに終わった。
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