ユーゴスラビア・セルビアに対する戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 14:05 UTC 版)
「ラムシュ・ハラディナイ」の記事における「ユーゴスラビア・セルビアに対する戦い」の解説
1996年から1997年にかけて、ハラディナイはアルバニアの国境近くの村クケス(Kukës)、モリナ(Morina)、トロポヤ(Tropojë)などで、コソボ解放軍の訓練基地の設立に関わった。1997年、ハラディナイ率いるコソボ解放軍の一団がユーゴスラビア・セルビア領のコソボ・メトヒヤ自治州との国境を不法に越境しようとしているところをセルビアの警備隊に発見された。両者の間で銃撃戦となり、ハラディナイの弟ルアン(Luan)が死亡した。 ハラディナイが最終的にコソボに戻ったのは1998年2月で、コソボ紛争が激化しているさなかであった。1998年2月28日から3月5日にかけて、ユーゴスラビア連邦(セルビア)の軍が、コソボ解放軍が支配する村リコシャン / リコシャネ(Likoshan / Likošane)、チレズ / ツィレズ(Qirez / Cirez)、プレカズ / プレカゼ(Prekaz / Prekaze)を攻撃した。ICTYによるファトミル・リマイ(Fatmir Limaj)、ハラディン・バラ(Haradin Bala)、イサク・ムスリウ(Isak Musliu)への起訴状では、以下のように述べている: 「攻撃の間(…)、83人のコソボのアルバニア人が殺害された。殺害された人々の中には老人の他、すくなくとも24人の女性や子どももいた。チレズ / ツィレズに対する攻撃の間、プレカジ=イ=ポシュテム / ドニェ・プレカゼ(Prekazi-i-Poshtem/Donje Prekaze)では妊婦が顔を撃たれ、嬰児が殺害された。被害者の多くは至近距離から撃たれていた。報告書によると、男性らは自分たちの家の前で即決処刑された。また別の被害者は警察に拘留されている間に殺害された。プレカジ=イ=ポシュテム / ドニェ・プレカゼへの攻撃の間、ヤシャリ(Jashari)の家族は、11歳の少女を除いて全て殺害された。」 ヤシャリ一家は、ハラディナイ一家と同様に、コソボにおけるセルビアの影響力排除を求めて抵抗するアルバニア人の重要な一族であり、セルビア側からの脅迫にさらされ続けていた。この攻撃によって危機感を抱いたハラディナイは、自分の家族にも同様の危険が及ぶのを事前に避けるようにした。 3月24日、ユーゴスラビア連邦軍がグロジャン / グロジャネを包囲し、作戦行動を始めた。ハラディナイ一族は地の利を活かし、ラムシュの指導の下、攻撃を回避することに成功した。この件によって、ハラディナイはコソボ西部におけるコソボ解放軍の指導者へと昇進していった。1998年5月、ラムシュ・ハラディナイはグロジャン / グロジャネとその周辺の村々の指導者となり、1998年6月にはドゥカジン地区の指導者となった。コソボ西部はアルバニアに隣接しているため、アルバニアから武器などを運び込む重要な回廊であった。ハラディナイが指導する地域は、最も衝突が激しい地域となった。 1998年9月、39人の遺体がハラディナイの故郷であるグロジャン / グロジャネの村で見つかった。その中には明らかに虐待を受けたと見られる痕跡が見られた。被害者には地元に住むアルバニア人とセルビア人の双方が含まれていた。この事件は、ハラディナイと彼の率いる一団に対する戦争犯罪行為として関心を集めた。
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