その後の服部家とは? わかりやすく解説

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その後の服部家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 09:57 UTC 版)

服部正就」の記事における「その後の服部家」の解説

正就の改易慶長9年12月)あるいは討死慶長20年5月)により弟の服部正重(伊豆守)が服部家家督継ぎ服部石見守半蔵襲名した正重家督継いだ時期不明であるが、「大久保長安預けられた後、上意により長吉から半蔵名乗り、また伊豆守名乗った」という記録があり、また佐渡島周辺の寺社には「服部半蔵金山同心務め屋敷領地があった」との伝承が残る。さらに正就が改易され掛川移った後の慶長10年2月徳川秀忠の上洛に従った家臣中に鉄砲奉行として服部石見守半蔵の名が記されているため、正重家督継承した時期は正就の改易及び蟄居前後慶長9年10年頃と推察される。 正重初め秀忠小姓家康近侍務めており、関ヶ原の合戦後は幕臣である大久保長安娘婿となっていた。慶長8年長安佐渡奉行任命されると、正重金山同心として慶長9年頃には佐渡島湊(現在の両津市)に居住執務し長安と共に金山政策行っていた。 慶長18年1613年長安死去に伴い大久保長安事件が起こると長安一族失脚し関係者縁者らが次々と処分されたが、正重長安娘婿という極めて近い立場であるにも関わらず関わりなし」として咎を受けなかった。しかし、幕府目付訪問佐渡待てという命に反し対岸本土である越後国出雲崎出迎えた事を咎められ改易となり、越後国村上藩主の村上義明村上頼勝)に身柄預けられた。以後29年正重村上藩仕え事となる。その後村上義明の子である村上忠勝改易され、代わって堀直寄村上藩主になる正重堀家預け替えとなり、堀家二千石(または三千石)という厚遇仕えた寛永19年1642年)、堀直定夭折により堀家断絶村上藩一時廃藩になると正重暇を出され浪人となった正重息子と共に甲州移り住んだ5年後寛永24年1647年)、甲州蟄居していた正重のもとを、正就の家臣であり大坂の陣で共に討ち死にした長嶋左衛門の子である同名の五左衛門訪れる。五左衛門は正就と松尾次男服部正辰家臣であり、正辰は叔父にあたる正重消息探し当て、五左衛門遣わせたのであった桑名招かれ正重高齢にも関わらず桑名藩主・松平定綱定勝の子)に二千石の上年寄という破格身分仕え事となった。この時すでに、正就の妻である松尾と、正就の長男である正幸は他界していた。また、正重長男服部正吉、次男服部七郎衛門千石部屋住みとなり、定綱に仕えた以降服部半蔵家は桑名藩家老職家(大服部家)として存続するその後大服部家は明治時代まで続き桑名藩家老であった十二代服部半蔵正義三重県区長等を務め、県の発展尽くした。 正就の妻の松尾桑名藩松平定綱の姉である事から、正就の子・正辰らもまた桑名藩仕えた。この家系は小服部家呼ばれ血統により藩主一族扱いを受け、前述服部半蔵家(大服部家)以上に優遇されていた。 松尾と正辰の墓、正重服部半蔵家(大服部家)の墓は桑名にあり、正辰に続く小服部家の墓は桑名の他、藩家老務めた今治松山にある。

※この「その後の服部家」の解説は、「服部正就」の解説の一部です。
「その後の服部家」を含む「服部正就」の記事については、「服部正就」の概要を参照ください。

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