その後の服部家
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正就の改易(慶長9年12月)あるいは討死(慶長20年5月)により弟の服部正重(伊豆守)が服部家の家督を継ぎ、服部石見守半蔵を襲名した。正重が家督を継いだ時期は不明であるが、「大久保長安に預けられた後、上意により長吉から半蔵と名乗り、また伊豆守を名乗った」という記録があり、また佐渡島周辺の寺社には「服部半蔵が金山同心を務め屋敷と領地があった」との伝承が残る。さらに正就が改易され掛川へ移った後の慶長10年2月、徳川秀忠の上洛に従った家臣の中に鉄砲奉行として服部石見守半蔵の名が記されているため、正重が家督を継承した時期は正就の改易及び蟄居の前後、慶長9年~10年頃と推察される。 正重は初め秀忠の小姓や家康の近侍を務めており、関ヶ原の合戦後は幕臣である大久保長安の娘婿となっていた。慶長8年、長安が佐渡奉行に任命されると、正重は金山同心として慶長9年頃には佐渡島湊(現在の両津市)に居住・執務し、長安と共に金山政策を行っていた。 慶長18年(1613年)長安の死去に伴い大久保長安事件が起こると長安の一族は失脚し、関係者や縁者らが次々と処分されたが、正重は長安の娘婿という極めて近い立場であるにも関わらず「関わりなし」として咎を受けなかった。しかし、幕府の目付の訪問を佐渡で待てという命に反し、対岸の本土である越後国出雲崎で出迎えた事を咎められて改易となり、越後国村上藩主の村上義明(村上頼勝)に身柄を預けられた。以後29年を正重は村上藩に仕える事となる。その後、村上義明の子である村上忠勝が改易され、代わって堀直寄が村上藩主になると正重も堀家に預け替えとなり、堀家に二千石(または三千石)という厚遇で仕えた。寛永19年(1642年)、堀直定の夭折により堀家は断絶、村上藩が一時廃藩になると正重も暇を出され、浪人となった正重は息子らと共に甲州へ移り住んだ。 5年後の寛永24年(1647年)、甲州で蟄居していた正重のもとを、正就の家臣であり大坂の陣で共に討ち死にした長嶋五左衛門の子である同名の五左衛門が訪れる。五左衛門は正就と松尾の次男服部正辰の家臣であり、正辰は叔父にあたる正重の消息を探し当て、五左衛門を遣わせたのであった。桑名へ招かれた正重は高齢にも関わらず、桑名藩主・松平定綱(定勝の子)に二千石の上席年寄という破格の身分で仕える事となった。この時すでに、正就の妻である松尾と、正就の長男である正幸は他界していた。また、正重の長男服部正吉、次男の服部七郎衛門も千石の部屋住みとなり、定綱に仕えた。以降、服部半蔵家は桑名藩の家老職家(大服部家)として存続する。その後、大服部家は明治時代まで続き、桑名藩家老であった十二代服部半蔵正義は三重県の区長等を務め、県の発展に尽くした。 正就の妻の松尾が桑名藩主松平定綱の姉である事から、正就の子・正辰らもまた桑名藩に仕えた。この家系は小服部家と呼ばれ、血統により藩主一族の扱いを受け、前述の服部半蔵家(大服部家)以上に優遇されていた。 松尾と正辰の墓、正重ら服部半蔵家(大服部家)の墓は桑名にあり、正辰に続く小服部家の墓は桑名の他、藩家老を務めた今治と松山にある。
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