堀直定とは? わかりやすく解説

堀直定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/07 01:18 UTC 版)

 
堀 直定
時代 江戸時代前期
生誕 寛永13年(1636年
死没 寛永19年3月2日1642年4月1日[1]
別名 千介[1]
戒名 春陽院殿梅台清銕大居士[1]
幕府 江戸幕府
越後村上藩
氏族 堀氏
父母 父:堀直次 母:土井利勝の娘[1]
兄弟 直定、女子(堀直吉室)[1]
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堀 直定(ほり なおさだ)は、江戸時代前期の大名。越後村上藩の第2代藩主[2]。4歳で家督を継いだが、7歳で夭折し、村上藩堀家は無嗣断絶となった。

生涯

寛永13年(1636年)、越後村上藩世嗣・堀直次堀直寄の子)の子として生まれる。母は当時老中を務めていた土井利勝の娘。

寛永15年(1638年)7月17日、直次は25歳で死去[1]。寛永16年(1639年)6月29日には祖父の堀直寄も死去し[3]、同年10月22日に直定(4歳)が家督を継ぐこと(嫡孫承祖)が認められた[1]

直定の家督相続に際して、直寄がかつて17万石余相当の軍役を務めたいと願い出たことが持ち出され、高直しが行われて村上藩は13万石とされた[1]。その上で、3万石は直定の叔父(直次の弟)である直時に分知され(のち村松藩主)、直定は10万石を領することとなった[1]。寛永18年(1641年)、直定は直時とともに市谷水道の石垣の普請を命じられて務め、幕府より家臣らへの褒美が与えられている[1]

直定は寛永19年(1642年)3月2日、7歳で死去した[1]沢庵宗彭小出吉英宛て書状(同年3月6日付)によれば、死因は疱瘡(天然痘)であるという[4]。これにより、村上藩堀家は断絶した[1][5]

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『寛政重修諸家譜』巻第七百六十六「堀」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.1192
  2. ^ 堀直定”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2025年5月7日閲覧。
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第七百六十六「堀」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.1191
  4. ^ 辻善之助編註『沢庵和尚書簡集』、岩波文庫、1942年、p,223. (国会図書館デジタルライブラリー
  5. ^ 『大猷院殿御実紀』巻第四十九・寛永十九年三月二日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第弐編』p.649




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