堀家の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 14:50 UTC 版)
代わって越後蔵王堂から堀直寄が10万石で入る。直寄は、村上城のさらなる拡張や城下町の整備、領内の産業育成に努めたが、将軍家から脇備えを命じられていたこともあり、過大な常備兵力を維持する必要に迫られた。そのため、領内には苛酷な検地を実施し、幕府に対しては、10万石の内高を17万石であると過大申告している。しかし寛永15年(1638年)7月、直寄の長男・堀直次が直寄に先立って死去した。翌年6月29日に直寄も死去したため、堀氏の家督は直次の子・堀直定が継いだ。このとき、3万石が加増されるが、弟の堀直時に加増分をそのまま分与している。ところが直定も寛永19年(1642年)3月1日にわずか7歳で早世した。跡継ぎに直時を擁立する動きもあったが認められず、無嗣断絶となり、村上藩は廃藩となった。なお、直時の系統はその後村松藩として存続している。
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