堀直次とは? わかりやすく解説

堀直次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/16 14:05 UTC 版)

 
堀 直次
時代 江戸時代前期
生誕 慶長19年(1614年[1]
死没 寛永15年7月17日1638年8月26日[1]
改名 堀直大→直次[1]
別名 三十郎(通称[1]
戒名 中証院殿月憲全清大居士[1]
官位 従五位兵部大輔[1]
幕府 江戸幕府
越後村上藩世子
氏族 堀氏
父母 父:堀直寄 母:松平近清の娘[1]
兄弟 女子(池田長常室)、直次直時、女子(岡部行隆室)
正室:土井利勝の娘[1]
直定、女子(堀直吉正室)[1]
テンプレートを表示

堀 直次(ほり なおつぐ)は、江戸時代前期の越後村上藩の世子。堀直寄の長男。

生涯

慶長19年(1614年)、信濃飯山藩堀直寄の子として、駿府において生まれる[1]。母は長沢松平家出身の松平近清の娘[1][注釈 1]。直寄は駿府の徳川家康のもとに伺候しており[4]、同年の大坂冬の陣では家康本陣の先陣を務めるなど[4]、翌年の夏の陣でも武功を挙げるなど[4]、家康の信任の厚い人物であった。直寄は戦後の元和2年(1616年)に越後蔵王堂藩長岡藩とも解される)8万石、元和4年(1618年)に越後村上藩10万石に移された[4]

寛永3年(1626年)、直次は従五位下・兵部大輔に叙任される[1]。寛永6年(1629年)12月26日、大御所徳川秀忠が直寄邸を訪問した際に、来国光の刀を与えられており[1]、また翌7年2月13日に将軍徳川家光が直寄邸を訪問した際も、同じく来国光の刀を与えられた[1]

寛永15年(1638年)7月17日、25歳で父に先立って死去した[1]

その後の堀家

寛永16年(1639年)6月29日には父・直寄も死去[4]。直次の長男である直定(4歳)が家督を継いで(嫡孫承祖)村上藩10万石の藩主となり、直定の叔父(直次の弟)である直時に3万石が分知された(のち村松藩主)[1]。直定は寛永19年(1642年)に7歳で没し、村上藩堀家は断絶した[1][5]

脚注

注釈

  1. ^ 近清の子・松平清直は、長沢松平家の宗家当主で当時越後高田藩主であった松平忠輝の家老を務めた人物である[2]。清直の妹の一人(堀直寄正室の姉)は土井利勝の正室[2]。直次の正室は土井利勝の娘であるため、いとこに相当する関係(義伯父の娘)ではあるが正室の所生ではない[3]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『寛政重修諸家譜』巻第七百六十六「堀」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.1192
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第四十「松平 長沢」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.207
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二百九十七「土井」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.610
  4. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻第七百六十六「堀」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.1191
  5. ^ 『大猷院殿御実紀』巻第四十九・寛永十九年七月三日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第弐編』p.649




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「堀直次」の関連用語

堀直次のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



堀直次のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの堀直次 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS