堀直次
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 慶長19年(1614年)[1] |
死没 | 寛永15年7月17日(1638年8月26日)[1] |
改名 | 堀直大→直次[1] |
別名 | 三十郎(通称)[1] |
戒名 | 中証院殿月憲全清大居士[1] |
官位 | 従五位下 兵部大輔[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 越後村上藩世子 |
氏族 | 堀氏 |
父母 | 父:堀直寄 母:松平近清の娘[1] |
兄弟 | 女子(池田長常室)、直次、直時、女子(岡部行隆室) |
妻 | 正室:土井利勝の娘[1] |
子 | 直定、女子(堀直吉正室)[1] |
堀 直次(ほり なおつぐ)は、江戸時代前期の越後村上藩の世子。堀直寄の長男。
生涯
慶長19年(1614年)、信濃飯山藩主堀直寄の子として、駿府において生まれる[1]。母は長沢松平家出身の松平近清の娘[1][注釈 1]。直寄は駿府の徳川家康のもとに伺候しており[4]、同年の大坂冬の陣では家康本陣の先陣を務めるなど[4]、翌年の夏の陣でも武功を挙げるなど[4]、家康の信任の厚い人物であった。直寄は戦後の元和2年(1616年)に越後蔵王堂藩(長岡藩とも解される)8万石、元和4年(1618年)に越後村上藩10万石に移された[4]。
寛永3年(1626年)、直次は従五位下・兵部大輔に叙任される[1]。寛永6年(1629年)12月26日、大御所徳川秀忠が直寄邸を訪問した際に、来国光の刀を与えられており[1]、また翌7年2月13日に将軍徳川家光が直寄邸を訪問した際も、同じく来国光の刀を与えられた[1]。
寛永15年(1638年)7月17日、25歳で父に先立って死去した[1]。
その後の堀家
寛永16年(1639年)6月29日には父・直寄も死去[4]。直次の長男である直定(4歳)が家督を継いで(嫡孫承祖)村上藩10万石の藩主となり、直定の叔父(直次の弟)である直時に3万石が分知された(のち村松藩主)[1]。直定は寛永19年(1642年)に7歳で没し、村上藩堀家は断絶した[1][5]。
脚注
注釈
出典
固有名詞の分類
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