内藤信美
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       『武家華族名誉伝 下』
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| 時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 | 
| 生誕 | 安政4年7月12日(1857年8月31日) | 
| 死没 | 大正14年(1925年)1月20日 | 
| 改名 | 小三郎、岡部長美(初名)、信美 | 
| 墓所 | 東京都渋谷区広尾の東北寺 | 
| 官位 | 従五位下・豊前守、正三位 | 
| 主君 | 明治天皇 | 
| 藩 | 越後村上藩主(藩知事) | 
| 氏族 | 岡部氏→内藤家 (信成系) | 
| 父母 | 父:岡部長寛、母:不詳 養父:内藤信思 | 
| 兄弟 | 信美、岡部長興、朝比奈長融、簾子、鎮姫、岡部長道室 | 
| 妻 | 松平忠精の娘・珓子 | 
| 子 | 璦子 養子:信任 | 
内藤 信美(ないとう のぶとみ)は、江戸時代後期の越後国村上藩の第9代(最後)の藩主。官位は従五位下・豊前守。のち正三位。
略歴
和泉国岸和田藩主・岡部長寛の長男として誕生。幼名は小三郎。初名は岡部 長美(おかべ ながとみ)。
慶応4年(1868年)7月11日に先代藩主・内藤信民が自害すると、村上藩は大混乱となり、8月11日には村上城も新政府軍によって落城した。それでも信民の遺志を継いだ家老の鳥居三十郎が抗戦したが、鳥居も9月末には降伏した。その後、7代藩主であった内藤信思は長美を養嗣子として「内藤信美」と名乗らせ、明治2年(1869年)2月3日に信民の跡を継がせた。
明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により知藩事となる。藩内で版籍奉還への反発が強く、知藩事就任が遅れた。同年6月28日、従五位下・豊前守に叙任する。同年11月9日、戊辰戦争の影響が収まらず、藩内の対立は続き、信思を政務の補佐に迎える。明治3年(1870年)6月9日、藩内の対立により、政府に進退伺を提出する。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により罷免されて、東京に移った。明治12年(1879年)10月、隠居して長女と結婚した婿養子の信任に家督を譲った。その後、内藤家を去って岡部家に戻ったため、信美の子孫は岡部姓に戻ったという。
大正14年(1925年)正月20日、69歳で死去した。墓所は東京都渋谷区広尾の東北寺。
系譜
父母
正室、継室
- 松平珓子 ー 松平忠精の娘(正室)
- 徳 ー 伊東宗祐の娘(継室)
子女
- 内藤璦子(長女) ー 内藤信任夫人[1]、生母は珓子(正室)
養子
- 内藤信任 ー 内藤信親の子
脚注
 
| 当主 | ||
|---|---|---|
| 先代 内藤信民 | 村上藩内藤家 1869年 - 1879年 | 次代 内藤信任 | 
固有名詞の分類
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