内藤家の時代とは? わかりやすく解説

内藤家の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 14:50 UTC 版)

村上藩」の記事における「内藤家の時代」の解説

そして、その後内藤家5万石で入ることで、ようやく藩主家安定したこの内藤家は、徳川家康異母弟という説もある内藤信成系統である。第6代藩主内藤信敦寺社奉行京都所司代その子第7代藩主内藤信思大坂城代京都所司代老中などを歴任している。信思の養嗣子第8代藩主となった内藤信民は藩内における方針対立苦しみながら、慶応4年1868年7月16日早世した。このため村上藩藩主不在となり、家老佐幕派鳥居三十郎主導権掌握する三十郎庄内藩と共に旧幕府軍に与して新政府軍交戦したが、敗れて同年9月27日降伏した明治2年1869年2月、信民の跡を継いだ内藤信美新政府より家督相続認められ同年6月には版籍奉還行なって村上藩知事となる。そして明治4年1871年)の廃藩置県により村上藩消滅して村上県となり、同年11月には新潟県吸収された。

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内藤家の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 01:41 UTC 版)

高遠藩」の記事における「内藤家の時代」の解説

鳥居家改易後高遠藩廃藩となり、元禄4年1691年)まで天領となったその後内藤清枚が33000石で入る。 第2代藩主・頼卿の時代から財政難始まり藩政改革試みられた。正徳4年1714年3月江島生島事件関わり高遠流罪にされた絵島身柄預かっている。第3藩主頼由は藩士に対して俸禄制採用して財政問題解決邁進した。第5代藩主の長好は幼少藩主になった事情もあるが、自らが頻繁に外出して遠乗り狩り花火見物に視察などを繰り返して領民負担をかけ、諸費用かなりの額に上った第7代藩主・頼寧は博学多才で、産物会所設置による産業奨励学問奨励新田開発計画、藩直営桑園経営などに手腕発揮して藩政改革成功収めた幕政においても日米関係の上申書を提出したり、兵備西洋式改変して藩士訓練させた。 安政6年1859年)に最後藩主となった内藤頼直は、藩校である進徳館設立長州征伐参加活躍した慶応4年1868年)の戊辰戦争では新政府軍与し北越戦争会津戦争参戦した明治2年1869年)の版籍奉還で、頼直は藩知事となる。そして明治4年1871年)の廃藩置県高遠藩廃藩となって高遠県となり、同年12月には筑摩県編入された。

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