内藤家の時代
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そして、その後に内藤家が5万石で入ることで、ようやく藩主家が安定した。この内藤家は、徳川家康の異母弟という説もある内藤信成の系統である。第6代藩主・内藤信敦は寺社奉行・京都所司代、その子の第7代藩主・内藤信思は大坂城代・京都所司代・老中などを歴任している。信思の養嗣子で第8代藩主となった内藤信民は藩内における方針対立に苦しみながら、慶応4年(1868年)7月16日に早世した。このため村上藩は藩主不在となり、家老で佐幕派の鳥居三十郎が主導権を掌握する。三十郎は庄内藩と共に旧幕府軍に与して新政府軍と交戦したが、敗れて同年9月27日に降伏した。明治2年(1869年)2月、信民の跡を継いだ内藤信美は新政府より家督相続を認められ、同年6月には版籍奉還を行なって村上藩知事となる。そして明治4年(1871年)の廃藩置県により村上藩は消滅して村上県となり、同年11月には新潟県に吸収された。
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内藤家の時代
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鳥居家改易後、高遠藩は廃藩となり、元禄4年(1691年)まで天領となった。その後、内藤清枚が3万3000石で入る。 第2代藩主・頼卿の時代から財政難が始まり、藩政改革が試みられた。正徳4年(1714年)3月の江島生島事件に関わり、高遠に流罪にされた絵島の身柄を預かっている。第3代藩主頼由は藩士に対して俸禄制を採用して財政問題解決に邁進した。第5代藩主の長好は幼少で藩主になった事情もあるが、自らが頻繁に外出して遠乗りや狩り、花火見物に視察などを繰り返して領民に負担をかけ、諸費用もかなりの額に上った。 第7代藩主・頼寧は博学多才で、産物会所設置による産業奨励、学問の奨励、新田開発計画、藩直営の桑園経営などに手腕を発揮して藩政改革に成功を収めた。幕政においても日米関係の上申書を提出したり、兵備を西洋式に改変して藩士に訓練させた。 安政6年(1859年)に最後の藩主となった内藤頼直は、藩校である進徳館の設立や長州征伐参加で活躍した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に与し、北越戦争・会津戦争に参戦した。明治2年(1869年)の版籍奉還で、頼直は藩知事となる。そして明治4年(1871年)の廃藩置県で高遠藩は廃藩となって高遠県となり、同年12月には筑摩県に編入された。
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