内藤家中興の祖
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延宝8年(1680年)、徳川綱吉の長男徳松の傅役に就任し、上総国・常陸国・下野国内で3000石を加増され、合わせて8000石を領した。徳松死後の貞享元年(1684年)、若年寄となり常陸国内で5000石を加増、合計1万3000石となり内藤家は大名に復帰する。翌貞享2年には大坂城代に転じ、摂津国・河内国内で2万石を与えられ3万3000石となる。貞享4年(1687年)には京都所司代を命ぜられ、従四位下侍従に叙任した。 元禄3年(1690年)11月27日、63歳で死去した。男子がなかったため、正勝の妹の子で天和元年(1681年)に養子としていた甥の清枚(旗本水野守政の次男)に跡を継がせた。清枚は元禄4年(1691年)に信濃高遠藩へ移封され、以後高遠藩内藤氏は明治維新まで約180年間存続した。 重頼は寛文8年(1668年)、父・正勝の葬儀を行った僧・太宗に寺地を寄進し、江戸に太宗寺を創建している。重頼自身は京都の金戒光明寺に埋葬されたが、その後も太宗寺は高遠藩内藤氏の菩提寺となった。
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