内藤家時代
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関東に入部した家康は、譜代の家臣内藤家長に上総国佐貫に入れ、2万石を与えた。これが佐貫藩の起源となる。慶長5年(1600年)、鳥居元忠や松平家忠と共に伏見城にあった家長は、西軍石田三成らの挙兵を誘う役割を果たした。関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城攻防戦で、家長は元忠や家忠と共に戦死している。 内藤家の家督は嫡男の政長が継ぎ、慶長7年(1602年)11月22日には上総国天羽郡内において1万石を加増された。その後、政長は里見忠義改易後の館山城破却工事や大坂の陣における功績などを評価されて、元和元年(1615年)3月25日、安房国平郡勝山において1万石を加増された。元和5年(1619年)11月、徳川秀忠の上総における鷹狩りに従ったことからさらに5000石を加増され、都合4万5000石の大名となった。 元和8年(1622年)9月28日、政長は陸奥国磐城平藩に加増移封となった。
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内藤家時代
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元和8年(1622年)9月、内藤政長が磐城平藩に移るとその所領は分割され、内藤清政(内藤政長とは同族だが別系統)が3万石を与えられた。清政はかつての勝山城の麓に陣屋を構え、安房勝山藩が立藩する。しかし、清政は嗣子の無いまま翌元和9年(1623年)に早世した。弟の正勝は16歳であったが、幼少であるとして安房勝山藩は一時的に除封された。寛永3年(1626年)、正勝が兄の遺領のうち2万石を継承し、再度勝山に入封するが、寛永6年(1629年)に22歳で早世する。嫡子の重頼はまだ2歳であったために5000石に減封され、安房勝山藩は廃藩となった。 なお、旗本となった重頼はのちに昇進して若年寄・大坂城・京都所司代の重職を歴任、大名として復帰し、最終的には3万3000石を領している。重頼の養子清枚は信濃高遠藩に移され、以後内藤家は幕末まで高遠藩主として続く。
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内藤家時代(1749年 - 1871年)
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寛延2年(1749年)、上野安中藩より内藤政苗が挙母へ領地替えとなる。以後、明治維新までの約120年間にわたり内藤家が挙母の地を支配することになる。内藤家は本多家から受け継いだ挙母1万石の他にも、遠江国と美作国に1万石を領し、都合2万石の大名となった。入部後、幕府より4,000両が与えられ、それまでの陣屋から挙母城築城の計画が進められた。しかし築城の計画は一揆や洪水、政争などの要因で遅々と進まなかった。この移転前の城は現在、桜城と呼ばれている。 結局、第2代藩主の内藤学文は安永8年(1779年)に挙母城の移転を決意、挙母城より西方の樹木台に新しい城の築城を進めることになる。そして天明5年(1785年)に築城工事が終わり、江戸から戻った学文は新城の見分をしている。それが現在、七州城と呼ばれる城にあたる。学文はまた藩校「崇化館」を創立している。以後、挙母の城下町は旧城を中心とした下町と新城を中心とした樹木の両地域で発展し、明治維新を迎える。
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