堀直清とは? わかりやすく解説

堀直清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/20 04:10 UTC 版)

 
堀直清
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正元年(1573年
死没 寛永18年9月29日1641年11月2日
改名 直次(初名)→直清[1]
別名 雅楽助→監物(通称
戒名 真雄院殿恍厳日喜大居士
主君 堀秀治忠俊
越後三条藩
氏族 堀氏
父母 父:堀直政
兄弟 直清、直倶、直寄直之直重、直里、直忠
正室:芳修院堀秀政の次女)
直昌、直倫、直友、直勝、直成、直信、直長、娘(伊坂某室)、娘(岩田某室)、娘(堀直利室)
テンプレートを表示

堀 直清(ほり なおきよ)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将大名堀直政の長男。

生涯

天正元年(1573年)、堀氏家臣・堀直政の長男として誕生。

堀宗家の当主・堀秀治忠俊に仕える。父・直政の名代として三条城主となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父と共に東軍に属し、越後で発生した上杉氏残党による一揆の鎮圧に尽力した。8月4日、上杉方が土民を騙り、三条城を攻撃、直清は敵を数多く討ち取り撃退した。そののち一揆勢は越後の境である加茂山に砦を構え、9月8日、会津の兵3000余人とともに大崎へ出陣するが、直清は三条城より討って出て、敵将を討ち取り、徳川秀忠から賞賛された。

慶長13年(1608年)、父の死後に三条5万石の城主となり、堀家の執政職となる。ところが慶長15年(1610年)、弟・直寄が直清を徳川家康に訴えた。直清と直寄の仲は悪く、慶長14年に直清は幼君である忠俊に訴えて直寄を追放にしたが、これを不服とした直寄は江戸へ移ると、江戸・駿府の幕閣に訴訟した。

主君の忠俊、そして直清、直寄、親族の利重ら堀家の一族が駿府へ呼び出され、家康による裁定が行なわれた。この際に直清は浄土宗日蓮宗の宗論を行わせ、敗れた浄土宗の僧侶十名を処刑した。家康は「家中取締不十分」とし、忠俊から所領を没収、忠俊は磐城平鳥居忠政のもとへ配流となった。直清も所領没収、最上義光のもとへ配流となった。直寄は1万石の減封となった。

寛永18年(1641年)、死去。

その後

直清の息子たちは、次男の主計直浄(家系図によっては直倫)は村上藩の叔父である直寄に仕え、村上除封後は新発田藩の溝口家に仕える。八男の主馬助直正(家系図によっては直信)は溝口宣直の母・長寿院の招きにより、新発田藩の溝口家に仕える。九男の新五左衛門直勝(家系図によっては直長)は信濃飯田藩の堀家に仕える。

脚注

  1. ^ 『寛永諸家系図伝』では直次となっている。『寛政重修諸家譜』のさい、村松堀家左京亮直方が幕府に提出した呈譜には直清とあり、『寛政譜』では系図は直次とし、註として「直方が呈譜に、直清に作る」と記されている。

参考文献

  • 堀直敬『堀家の歴史』堀家の歴史研究会、1967年
  • 寛政重修諸家譜』巻第七百六十六




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「堀直清」の関連用語

堀直清のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



堀直清のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの堀直清 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS