家臣団の形成とは? わかりやすく解説

家臣団の形成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 02:07 UTC 版)

新発田藩」の記事における「家臣団の形成」の解説

溝口秀勝丹羽長秀仕え天正9年1581年)、若狭国高浜城主5000石を給されるそれ以前からの家臣は、槍持ち務め60石を給されていた入江左衛門と、天正5年配下加わった近江国浅井郡速水出身速水右衛門最古参家臣高浜城主になると、旧領主逸見駿河守遺臣香川民部寺井主馬配下加える。天正10年織田信長滅ぼされるとその遺臣加藤清重、坂井式部数馬の祖)を配下とする。加藤家は後に溝口氏賜り溝口内匠家の祖となる。この他高浜時代仕官した者は、柿本蔵人窪田与左衛門大津三宅中西らがいる。窪田与左衛門家は元禄9年断絶するが、分家窪田兵衛家がのちに家老務め家系となる。天正12年堀秀政与力として加賀大聖寺四万千石領主となると柴田勝家遺臣丹羽秀綱(四郎兵衛の祖)、脇本兵衛配下とする。 慶長3年1598年)、堀秀治とともに越後移封新発田藩6万石領主となると会津藩旧領主蒲生家の遺臣奥村矢代熊田らを配下とする。彼らは会津衆と呼ばれた慶長15年堀家除封され、堀忠俊堀直清配流されると、直清の六男主馬助直正(堀丈大夫の祖)を招き入れる元和元年1616年)、大坂の陣起こり落人となった母子迎え入れ南部左衛門養子とする。同じく落人土橋弥太郎迎え入れる土橋家は後に溝口姓を与えられ溝口伊織家の祖となる。元和4年村上周防守が跡継ぎなく除封となると、その遺臣下長門守本国迎え入れる下家は、越後国奥山庄(その中で関川村辺り)の中世からの国人領主家柄で、本国の父の代から上杉家の家臣として庄内代官勤めそののち最上義光仕え、のち村上周防守に仕えていた。 寛永4年1627年)、会津蒲生忠郷除封されると、その遺臣寺尾仙石らを迎え入れる寛永19年村上堀家断絶すると、堀主計直浄、河村大岡らを迎え入れる主計直浄は堀直清次男で、主馬助直正の兄に当たる。正保元年1645年)、会津加藤明成没すると、その遺臣佐治、君、七里梅原赤佐らが加わる。 そのほかにも、徳川忠長松平直矩村上藩時代)、細川忠興福岡藩島原藩会津藩米沢藩などから、仕官変えしてきたものもいた。徳川忠長改易されると、堀三政が来藩、堀勘兵衛、堀善大夫の祖となる。細川家から高久黒田家から里村村上藩松平家から宮北米沢から山庄、島原から高力隆長遺臣板倉渡辺小野寺らが新発田藩へやってきた。 以上に挙げられた氏は物頭武頭)以上の家系で、家老城代用人組頭奉行などの役職勤めた。 (以上)

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