家臣団の形成
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溝口秀勝は丹羽長秀に仕え、天正9年(1581年)、若狭国高浜城主5000石を給される。それ以前からの家臣は、槍持ちを務め、60石を給されていた入江九左衛門と、天正5年に配下に加わった近江国浅井郡速水郷出身の速水三右衛門が最古参の家臣。高浜城主になると、旧領主逸見駿河守の遺臣、香川民部、寺井主馬を配下に加える。天正10年、織田信長が滅ぼされるとその遺臣、加藤清重、坂井式部(数馬の祖)を配下とする。加藤家は後に溝口氏を賜り、溝口内匠家の祖となる。この他、高浜時代に仕官した者は、柿本蔵人、窪田与左衛門、大津、三宅、中西らがいる。窪田与左衛門家は元禄9年に断絶するが、分家の窪田平兵衛家がのちに家老を務める家系となる。天正12年、堀秀政の与力として加賀大聖寺四万四千石の領主となると、柴田勝家の遺臣、丹羽秀綱(四郎兵衛の祖)、脇本仁兵衛を配下とする。 慶長3年(1598年)、堀秀治とともに越後へ移封、新発田藩6万石の領主となると、会津藩の旧領主蒲生家の遺臣、森、奥村、矢代、熊田らを配下とする。彼らは会津衆と呼ばれた。慶長15年、堀家が除封され、堀忠俊、堀直清が配流されると、直清の六男主馬助直正(堀丈大夫の祖)を招き入れる。 元和元年(1616年)、大坂の陣が起こり、落人となった母子を迎え入れ、南部次左衛門の養子とする。同じく落人の土橋弥太郎を迎え入れる。土橋家は後に溝口姓を与えられ、溝口伊織家の祖となる。元和4年、村上周防守が跡継ぎなく除封となると、その遺臣、下長門守本国を迎え入れる。下家は、越後国奥山庄(その中でも関川村の辺り)の中世からの国人領主の家柄で、本国の父の代から上杉家の家臣として庄内の代官を勤め、そののち最上義光に仕え、のち村上周防守に仕えていた。 寛永4年(1627年)、会津の蒲生忠郷が除封されると、その遺臣、寺尾、仙石らを迎え入れる。寛永19年、村上堀家が断絶すると、堀主計直浄、河村、大岡らを迎え入れる。主計直浄は堀直清の次男で、主馬助直正の兄に当たる。正保元年(1645年)、会津の加藤明成が没すると、その遺臣、佐治、君、七里、梅原、赤佐らが加わる。 そのほかにも、徳川忠長、松平直矩(村上藩時代)、細川忠興、福岡藩、島原藩、会津藩、米沢藩などから、仕官変えしてきたものもいた。徳川忠長が改易されると、堀三政が来藩、堀勘兵衛、堀善大夫の祖となる。細川家から高久、黒田家から里村、村上藩の松平家から宮北、米沢から山庄、島原から高力隆長の遺臣、板倉、渡辺、小野寺らが新発田藩へやってきた。 以上に挙げられた氏は物頭(武頭)以上の家系で、家老、城代、用人、組頭、奉行などの役職も勤めた。 (以上)
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