家臣団の亀裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:11 UTC 版)
日本最大の大名になった利長は関ヶ原の戦いで所領を失った赤座直保・永原孝治父子や浮田休閑・内藤徳庵らを召し抱え、更に家康の重臣・本多正信の次男の本多政重に3万石を与えて召し抱えた。家臣団の拡大は家康への服従以来問題になっていた家臣同士の対立を深刻にした。 尾張以来の家臣を中心とする太田長知(ながとも)のグループ(中川光重・篠原一孝・村井長次・奥村栄明・神尾之直ら)と、能登・加賀時代からの家臣を中心とする横山長知(ながちか)のグループ(長連龍・高山長房・富田重政・山崎長徳・青山吉次ら)が対立し、利長は慶長6年(1601年)に19か条からなる定書を制定して喧嘩両成敗・徒党の禁止などを定めて家中の引き締めを図るが、結局は翌慶長7年(1602年)には利長自身が横山長知・山崎長徳に命じて、金沢城内で太田長知を暗殺させた。 その後、利長は横山長知・篠原一孝・奥村永福(栄明の父)の3人を筆頭家老として藩政を運営させ、利長が異母弟の利常に家督を譲った後は彼らに藩政を委ねさせた。永福の引退後は息子の栄明と本多政重を加えたが、横山は篠原一孝とも対立し、更に先の太田長知暗殺の功労を巡って山崎長徳とも対立する有様であった。慶長16年(1611年)に利長が一時病気で重篤になった際の遺言には特に「横山長知と神尾之直」「横山長知と山崎長徳」「高山長房と村井長次」の不仲は深刻であると述べて和解を求め、横山と山崎は横山の娘・せうを山崎の子・光式に嫁がせることで和解したものの他の和解は進まなかった。 慶長19年(1614年)1月、江戸幕府の命令で高山長房・浮田休閑・内藤徳庵らキリシタンの家臣が捕縛されて幕府に引き渡され、2月には横山長知が奥村栄頼(永福の三男で栄明の弟)に讒言されたことを憤慨して一族と共に剃髪致仕を申し入れると、利長や本多政重の説得にも関わらず出奔してしまう。これを知った奥村栄頼は篠原一孝に対して利長の命令であるとして横山を討ち取るように指示するが、利長が横山を誅殺することはあり得ないと考えた篠原はむしろこれは奥村栄頼が自分を陥れる罠ではないかと疑って指示を拒絶している。 10月、横山長知は大坂の陣に出陣する途上の前田利常と越前国麻生津の陣にて会見してそのまま帰参したものの、長年の主君であった利長は既に5月にはこの世を去っていた。また、翌年には横山を陥れたとされた奥村栄頼が一族と共に出奔を試みたものの父・兄が応じず、誘われた本多政重も同調しなかったために1人で出奔している。家臣団の統制の問題は利長を最後まで苦しめ、次の利常へと引き継がれることになる。
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