家臣団の特質
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旧主龍造寺一族の藩政への関与 龍造寺政家・高房父子の没後も、龍造寺一族は健在であり、領内において広大な所領を有していた。龍造寺系の各家は、豊臣秀吉の九州国割りの際に、直接、秀吉から朱印状を下付されていたため、彼らには、「領地は太閤殿下より直々に安堵されたもので、鍋島家から与えられたものではない」という意識が強かった。それら一族は、鍋島家の藩政のもと、重臣として藩政を左右する枢要にあったが、鍋島家に遠慮して、龍造寺の姓を改めている。村田家・諫早家・多久家・武雄鍋島家・須古鍋島家はいずれも龍造寺一族である。鍋島家は本来は竜造寺家の家臣であり、旧竜造寺家家臣からしても本来は同格という意識が残っていた。彼らは後述されるように地方知行制であり、大身の家は藩内で独自勢力を保っていた。このため佐賀藩は鍋島勝茂以降に幾度も藩政改革を行い、鍋島家三支藩を含めてそれぞれの勢力を削ることに力を入れている。石井氏や太田氏に鍋島姓が許されたのも、各氏の意識改革と強い制度改革に対する懐柔手段の一つであった。 手明槍 龍造寺隆信の全盛期、北九州一帯の大小名を包括して家臣団がにわかに拡大形成されたが、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにおける隆信の横死により、龍造寺家の勢力が衰退し、支配地は大幅な減少を見せた。にもかかわらず、初期の家臣団をそのまま維持していたため、大きな財政負担になりつつあった。そこで初代藩主鍋島勝茂は、知行50石以下の侍の知行地を召し上げ無役とし、蔵米から禄を支給することにした。 ただし戦時の際には、槍一本具足一領で軍役を担うこととされた。後年に至っては、「手明槍」でも諸役に任じられるようになった。 地方知行制 佐賀藩では、戦国時代の領国支配の形態を色濃く残しており、幕末まで、家臣の多くは知行地を持ち、そこから独自に年貢を徴収し軍役の備えを行ない、家来を養っていた。しかし、藩政時代後期は、藩の財政の逼迫により、知行取りから切米取りの侍が増えた。 上級家臣については、「大配分」と称され、本藩の統一支配ではなく、知行主の自治が行なわれていた。
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