旧主龍造寺一族の藩政への関与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 05:22 UTC 版)
「佐賀藩」の記事における「旧主龍造寺一族の藩政への関与」の解説
龍造寺政家・高房父子の没後も、龍造寺一族は健在であり、領内において広大な所領を有していた。龍造寺系の各家は、豊臣秀吉の九州国割りの際に、直接、秀吉から朱印状を下付されていたため、彼らには、「領地は太閤殿下より直々に安堵されたもので、鍋島家から与えられたものではない」という意識が強かった。それら一族は、鍋島家の藩政のもと、重臣として藩政を左右する枢要にあったが、鍋島家に遠慮して、龍造寺の姓を改めている。村田家・諫早家・多久家・武雄鍋島家・須古鍋島家はいずれも龍造寺一族である。鍋島家は本来は竜造寺家の家臣であり、旧竜造寺家家臣からしても本来は同格という意識が残っていた。彼らは後述されるように地方知行制であり、大身の家は藩内で独自勢力を保っていた。このため佐賀藩は鍋島勝茂以降に幾度も藩政改革を行い、鍋島家三支藩を含めてそれぞれの勢力を削ることに力を入れている。石井氏や太田氏に鍋島姓が許されたのも、各氏の意識改革と強い制度改革に対する懐柔手段の一つであった。
※この「旧主龍造寺一族の藩政への関与」の解説は、「佐賀藩」の解説の一部です。
「旧主龍造寺一族の藩政への関与」を含む「佐賀藩」の記事については、「佐賀藩」の概要を参照ください。
- 旧主龍造寺一族の藩政への関与のページへのリンク