旧久松家本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 00:22 UTC 版)
詞書6段、絵6段、重要文化財、個人蔵(東京国立博物館寄託)。伊予松山藩久松松平家伝来。久松松平家は、明治になって先祖の姓である久松に戻したためこの名がある。日記の後半部分と末尾を絵画化している。後半3段は、寛弘7年(1010年)正月15日の敦良親王(後の後朱雀天皇)の五十日(いか、誕生50日目の祝儀)の日の様子。前半3段はこれとは異なるエピソードが描かれている。 第一段 - 賀茂臨時祭奉幣使となった藤原教通(道長二男)の晴れ姿。 第二段 - 船上の管絃の遊び。 第三段 - 道長が紫式部の局を訪れる。 第四段 - 寛弘7年正月15日、敦良親王の五十日の祝儀、食物を運ぶ貴人たち。 第五段 - 同日の祝儀終了後、巻き上げられた御簾と2人の女房。 第六段 - 同日の祝儀終了後、高欄に倚る3人の貴人。 第二段の絵と詞は内容が照応せず、別々のものである。第二段の絵について、『角川 絵巻物総覧』(解説:佐野みどり)は、寛弘6年9月11日、中宮の安産祈願のために道長の土御門邸で行われた仏事後の管絃の遊びを描いたものとする。一方、『日本の絵巻 9 紫式部日記絵詞』(解説:小松茂美)は、寛弘5年5月22日、土御門邸の新御堂で行われた阿弥陀懺法の後のこととする。第二段の直前の詞書は(寛弘5年)師走29日の参内について述べたもので、前後の絵と関係がなく、本来は蜂須賀本の第四段の前にある絵と組み合うものである。第四段の絵について、小松茂美は、五節舞に関連づけ、寛弘5年11月21日の五節の舞姫の「御前の試み」(清涼殿で天皇に舞を見せる行事)の日の五節所(舞姫の控え所)を描いたものかと推定している。 旧久松家本より 第三段 道長が紫式部の局を訪れる。 第四段 寛弘7年正月15日、敦良親王の五十日の祝儀、食物を運ぶ貴人たち。
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