旧森川家本
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詞書5段、絵5段。元は1920年(大正9年)名古屋の森川勘一郎(如春庵)が発見した巻子本1巻。藤田本に続く、行幸翌日の10月17日の場面と、11月1日の敦成親王の五十日(いか、誕生50日目の祝儀)の日の様子を描く。伝来は不明だが、絵のみが水野忠央の『丹鶴叢書』壬子帙に旧久松家本と共に木版で収められており、西国の大名家(伊予西条松平藩か)が秘蔵していたとみられる。森川は、手持ちの古美術コレクションを整理してこの絵巻を購入したという。 この旧森川家本は3度にわたり現状変更(分割)が行われている。最初は1932年(昭和7年)で、所有者の森川勘一郎は、当時の大収集家であった益田孝(鈍翁)に絵巻を売却した。この際、益田は巻子最後の絵と詞書各1段分を切断し、森川の元に残した(現在は軸装、個人蔵、重要文化財)。しばしば益田の美術関係における相談役をしていた田中親美はこの処置に不賛成だったが、聞き届けられなかった。2度めは翌1933年(昭和8年)、明仁上皇生誕を祝し宮家を招いて茶会を催した時である。益田は、この茶会の掛け物にするため、生誕祝いの席にふさわしい旧森川家本の第三段、寛弘5年11月1日夜、敦成親王誕生50日の祝の場面を切断した(別の個人収集家を経て、現在は東京国立博物館蔵、重要文化財。e国宝に画像と解説)。その翌年の1934年(昭和9年)、益田は残った3段分を、額装6面(絵・詞各3面)に改装する。この6面は戦後、別の個人所蔵家を経て、五島美術館の所蔵となった(国宝)。 各段の内容は以下のとおり。 第一段(現・五島美術館本第一段) - 行幸翌日の10月17日、中宮権亮実成と中宮大夫斉信が紫式部らのいる部屋を訪れる。 第二段(現・五島美術館本第二段) - 11月1日の敦成親王の五十日(いか)の祝儀。 第三段(東京国立博物館蔵) - 同夜、親王の外祖父道長が五十日の餅を差し上げる。 第四段(現・五島美術館本第三段) - 同夜、祝宴の後、酔って女房たちにたわむれる貴人たち。 第五段(個人蔵) - 同夜、几帳のかげに隠れていたところを道長に見つかり、祝いの和歌を詠むように迫られる紫式部と宰相の君。 五島美術館本第一段 帝の土御門邸行幸翌日の10月17日、中宮権亮実成と中宮大夫斉信が、紫式部のいる「宮の大夫の局」を訪れる。呼び掛ける実成(右)と斉信(左)、蔀戸越しに顔をのぞかせる紫式部。 (同左 詞書) 五島美術館本第二段 寛弘5年11月1日の敦成親王の五十日の祝儀。若宮を抱く中宮(奥、顔は見えない)と給仕する女房たち。 (同左 詞書) 五島美術館本第三段(旧森川家本第四段)寛弘5年11月1日の敦成親王の五十日の祝儀。同日夜、祝宴の後、酔って女房たちにたわむれる貴人たち。左衛門督・藤原公任(画面右手中央の人物)が「あなかしこ、此のわたりわかむらさきやさぶらふ(恐れ入りますが、この辺りに若紫は居られませんか)」とたわむれる。 (同左 詞書)
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