筆頭家老として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/01 07:03 UTC 版)
頼兄は頼房の信頼を得て家老となり、天正20年(1592年)2月1日、相良姓を与えられ、相良兵部少輔頼兄を名乗った。同じく頼蔵にも相良姓が与えられたが、両人の不和は様々な支障を生じるようになっており、頼房もこれを憂慮し朝鮮出兵の際には両人に誓紙を書かせた。同年3月1日からは朝鮮出兵にも副軍師として頼房と頼蔵と共に渡海している。 文禄2年(1593年)、深水一族で頼蔵派である竹下監物とその嫡子・知行が、太閤検地により所領を召し上げられた際に、監物はこれを頼兄の計略と訝ったため深水一族600人が湯前城に籠城する騒動が起きた。これは頼房の命で監物ら数名が切腹して沈静化したが、この頼兄(犬童氏)と頼蔵(深水氏)の対立は明治時代を迎えるまで打ち続く人吉藩の藩内抗争へと繋がっていく。朝鮮出兵から帰国した頼蔵は、暗殺を恐れて肥後の加藤清正を頼った。実父・織部ほか深水一族も相次いで佐敷に出奔したので、頼兄は家臣の流出を止めるべく一勝地に人をやって捕え、73名の深水一党を斬った。これには庇護者であった加藤家が怒り、豊臣秀吉の惣無事令が禁じる私闘であると訴え出た。しかし頼兄は巧みな弁舌で奉行の石田三成を納得させ、お咎め無しとなった。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に付いた相良氏は、伏見城の戦いなどで率先して戦ったが、大垣城にて西軍本隊が大敗したと知るや、徳川家臣・井伊直政と内通していた頼兄は、頼房に東軍に寝返るように進言し、同じく内通していた秋月種長・高橋元種兄弟と共に、西軍諸将を謀殺して、相良氏の存続を成し遂げた。これらの功績から頼兄は筆頭家老として国政を任され、人吉藩2万2千石のうち、半分近い8000石を与えられた。 徳川家の時代になると頼兄は、関ヶ原の戦後交渉で恩があり、同じ兵部少輔であった井伊直政を憚り清兵衛尉と改めた。 頼房の晩年は執務全般を頼兄が専断することを許し、全てを取り仕切るようになっていた。頼房の死後は頼寛に仕えたが、まだ若い主君は、藩主を凌ぐ勢力となった清兵衛一派を嫌い折り合いが悪かった。真偽は不明だが、藩主が市房山詣での途上で頼兄の屋敷に挨拶にきた際に、藩主を暗殺しようとして失敗したという民話も伝えられている。 寛永14年(1637年)の島原の乱の際は頼寛は参勤で江戸におり、頼兄の子・相良頼安(内蔵助)とその子・頼章(喜兵次)が、藩主名代として出陣した。
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