〒211-0052 神奈川県川崎市中原区等々力
等々力
等々力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 08:01 UTC 版)
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等々力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 08:51 UTC 版)
人皇十二代景行天皇の頃に、東夷の襲来を怖れた仁品王(「仁品」は後に「仁科」と改称)は、矢原(現・安曇野市穂高矢原)に陣を構え、弓箭を荘(かざ)って健男を集め、「郎等等力合(ろうどう、ひとしくちからをあわせ)」てこれに備えた。この「郎等、等、力合」の中の「等等力」をとって、「保高(穂高)等々力」の地名が起った、とある。 等々力氏の起源は、飛鳥時代の田村守宮(たむらのいもり)に遡る。斉明天皇2年(656年)に、大海人皇子(天武天皇)に比定されうる「皇極ノ太子」の密命で、その三歳になる子が仁科の城主として派遣された。その際、補佐として田村守宮をつけて、都(岡本宮)から王町(現・大町市)に降った。この田村守宮が等々力氏の祖で、8世紀頃に孫が初めて等々力玄馬亮(とどりきのげんばのすけ)を名のることとなる(しかし玄馬亮の子は、再び「田村守宮」を名のっている)。 「皇極ノ太子」を天武天皇に比定すると、この田村守宮はあるいは天武天皇の父の舒明天皇(田村皇子(たむらのみこ))か、その母の糠手姫皇女(田村皇女(たむらのひめみこ))の一族である可能性も示唆されている。 別に、八面大王退治の「伝説」とともに語られているバージョンもある。『信府統記』(第十七)、『仁科開基』などによると、八面大王と呼ばれる盗賊(の一団)を坂上田村麻呂が退治して帰る際、その家臣の「等々力玄蕃允(とどりきのげんばのすけ)」を現地に残した、というのである。しかしながら後者の記述は、著名な征夷大将軍田村麻呂の征東にあわせた伝説である感をまぬがれない。
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等々力(とどろき)
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「びっくり箱殺人事件」の記事における「等々力(とどろき)」の解説
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