堀家統治時代とは? わかりやすく解説

堀家統治時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:44 UTC 版)

高田藩」の記事における「堀家統治時代」の解説

慶長3年1598年4月越後春日山には越前北之庄より秀吉家臣堀秀治30万石45万石とも)で入った秀治織田信長寵愛された近臣堀秀政嫡男である。ただしこの際越後には堀直政ら堀一族溝口秀勝新発田城主)や村上頼勝村上城主)ら与力大名付属されたため、秀治自身裁量が及ぶ範囲10万石余だったとされる秀治慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍与して越後在国したが、これは関ヶ原本戦の5か月前の4月上杉景勝とその家老直江兼続越後残った上杉家旧臣神官僧侶らを煽動して越後国内で一揆起こしたためであった上杉遺民一揆)。この一揆は特に魚沼地方激しく行われたが、堀家はこの一揆鎮定した。そのため、戦後徳川家康から所領安堵され、幕藩体制下における高田藩福嶋藩)が立藩した。秀治一族名臣として名高い堀直政執政として藩政基礎固め着手し関ヶ原の戦いの年には春日山城から福嶋城に居城を移す計画立てた慶長11年1606年5月秀治31歳急死した堀家家督秀治の子11歳の忠俊が継いだ慶長12年1607年)、忠俊は謙信時代からの越後本城である春日山城廃して福嶋城に移った。しかし、忠俊は幼年の上生来病弱もあって政務が執れるはずもなく、実質的な政務堀直政執政として引き続き取り仕切った慶長13年1608年2月26日直政死去すると、堀家内部内紛起こった直政は子に堀直次越後三条城主)とその異母弟堀直寄坂戸城主)の2人がいたが、この2人が藩の主導権めぐって争い始めたのである。その争い慶長15年1610年)に入ると激化し同年2月には徳川家康による裁断を受けることとなった。忠俊自身は直次を支持していたが、直次が浄土宗日蓮宗僧侶争論させて、敗れた方の僧侶全て処刑していたことが発覚し、これに家康激怒した。閏2月2日、忠俊は改易となり、陸奥岩城流された(直次は改易の上出羽最上流刑、直寄は信濃飯山藩4万石懲罰的移封となった)。この裁定は、家康僧侶殺害激怒したことも一因であるが、堀家豊臣恩顧大名であり、加賀前田家抑えるためには信頼に足る一族越後配しておきたいという思惑があったためとも言われており、事実堀家改易迅速に行われた

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