堀家統治時代
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慶長3年(1598年)4月、越後春日山には越前北之庄より秀吉の家臣・堀秀治が30万石(45万石とも)で入った。秀治は織田信長に寵愛された近臣堀秀政の嫡男である。ただしこの際、越後には堀直政ら堀一族、溝口秀勝(新発田城主)や村上頼勝(村上城主)ら与力大名も付属されたため、秀治自身の裁量が及ぶ範囲は10万石余だったとされる。 秀治は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して越後に在国したが、これは関ヶ原本戦の5か月前の4月に上杉景勝とその家老の直江兼続が越後に残った上杉家の旧臣や神官・僧侶らを煽動して越後国内で一揆を起こしたためであった(上杉遺民一揆)。この一揆は特に魚沼地方で激しく行われたが、堀家はこの一揆を鎮定した。そのため、戦後に徳川家康から所領を安堵され、幕藩体制下における高田藩(福嶋藩)が立藩した。秀治は一族の名臣として名高い堀直政を執政として藩政の基礎固めに着手し、関ヶ原の戦いの年には春日山城から福嶋城に居城を移す計画を立てた。 慶長11年(1606年)5月、秀治は31歳で急死した。堀家の家督は秀治の子で11歳の忠俊が継いだ。慶長12年(1607年)、忠俊は謙信時代からの越後の本城である春日山城を廃して福嶋城に移った。しかし、忠俊は幼年の上、生来の病弱もあって政務が執れるはずもなく、実質的な政務は堀直政が執政として引き続き取り仕切った。 慶長13年(1608年)2月26日に直政が死去すると、堀家の内部で内紛が起こった。直政は子に堀直次(越後三条城主)とその異母弟の堀直寄(坂戸城主)の2人がいたが、この2人が藩の主導権をめぐって争い始めたのである。その争いは慶長15年(1610年)に入ると激化し、同年2月には徳川家康による裁断を受けることとなった。忠俊自身は直次を支持していたが、直次が浄土宗と日蓮宗の僧侶を争論させて、敗れた方の僧侶を全て処刑していたことが発覚し、これに家康が激怒した。閏2月2日、忠俊は改易となり、陸奥岩城に流された(直次は改易の上、出羽最上に流刑、直寄は信濃飯山藩4万石に懲罰的な移封となった)。この裁定は、家康が僧侶殺害に激怒したことも一因であるが、堀家が豊臣恩顧の大名であり、加賀の前田家を抑えるためには信頼に足る一族を越後に配しておきたいという思惑があったためとも言われており、事実堀家の改易は迅速に行われた。
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