堀家について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 00:04 UTC 版)
「延寿寺 (兵庫県市川町)」の記事における「堀家について」の解説
堀家は、因幡の国(鳥取県天徳寺に堀家先祖の墓地がある)池田輝政の四男輝澄の家老として仕えた。輝澄の移動に伴い因州(兵庫県宍粟市)山崎藩をへて、神西郡福本藩(兵庫県神崎郡神河町)で定着。後に400石を受領し4km南・屋形に分家(地区内宝樹寺に池田家と堀家の墓地が残されている)している。 元禄年間に入りこの地より2km北西の沢に移り作り酒屋を始め成功し、大庄家として君臨、和田山より姫路へ下るには、必ず堀家の土地を通らねばならないほどの大地主であった。 この敷地内の竹藪の中に堀家の地神として祭られていたのが、縁起の中の児島高徳公である。おそらくこの土地を求めたときにはすでにこのホコラはあったのだろう。歴史研究家によると「この宝篋印塔は非常に古い形をしてる」そうである。 この竹藪は戦後まもなく食糧難のため開墾されホコラも取り壊されてしまった。
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