堀尾家時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 03:53 UTC 版)
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、毛利家は周防・長門2国に減封となり、吉川広家も岩国に移された。これにより遠江国浜松で12万石を領していた堀尾忠氏が、この前年に隠居して越前国府中に5万石の隠居料を得ていた父・吉晴とともに、あらためて出雲・隠岐2国24万石で入部、出雲富田藩(いずもとだはん)が立藩した。 忠氏は間もなく慶長9年(1604年)に27歳で没し、跡を継いだ忠晴はまだ5歳の幼児だったことから、祖父・吉晴がその後見として事実上の藩主となった。吉晴は月山富田城が山城で不便を感じたため、慶長12年(1607年)から足かけ5年をかけて松江城を築城するとともに、その城下町の建設を行った。慶長16年(1611年)に吉晴は松江城に移り、松江藩が成立したが、吉晴はこれを見届けると間もなく死去した。忠晴は成人したものの男子に恵まれず、寛永10年(1633年)に33歳で死去すると堀尾家は無嗣改易となったが、堀尾家が築いた松江は以後も政治経済の中心として栄え、今日に至っている。ちなみに、忠晴が死亡し堀尾家の無嗣改易が明確化した時、その後釜として美作津山藩主・森忠政の許に出雲・石見・隠岐の3か国への加増転封の話が浮上する。津山藩では藩士を巡検させて検討するも、肥沃でない土地も多く含まれていたことから、忠政も当初乗り気ではなかったが、老中・酒井忠勝より御内証が届けられたことによりこの話を受けた。しかし翌寛永11年(1634年)7月7日に忠政が京都で急死したため、将軍家との正式な会談が持たれる前でもあったことから3か国加増の話は立ち消えとなった。
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