服部正辰
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服部 正辰 (はっとり まさとき、慶長14年(1609年)- 寛文3年(1663年)) は、江戸時代の武士。桑名藩服部家初代。
父は服部正就。母は松平定勝の長女松尾。正室は久松吉次の娘。兄は服部正幸。子は服部正容、服部保元、服部正純。通称源右衛門。
生涯
父正就は幕府の旗本で、慶長10年(1605年)12月罪を得て改易となり、元和元年(1615年)戦功を立てて赦免を受けるべく、大坂夏の陣に出陣し、大坂天王寺で戦死する。幼い正辰は、叔父の松平定行の元で養育された。成長すると同じく叔父の松平定綱に仕え、2000石の合力を受け、後に3000石に加増された。寛文3年(1663年)日光門主守澄法親王に願書を提出し、旗本としての復帰を訴え、老中に面談するために江戸に滞在中に病死。享年55。墓所は桑名市円妙寺(境外墓地)。家督は長男正容が相続。次男保元は、親族の松平定長に招かれて家臣となり、同じく、三男正純は、松平定房に招かれ家臣となった。松山騒動の責任を取らされ、流罪となり、後に殺害された伊予松山藩家老の奥平久兵衛貞国は、次男保元の子。

服部正辰(はっとりまさとき)
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「もののて」の記事における「服部正辰(はっとりまさとき)」の解説
徳川幕府 忍番 第一番頭。初代服部半蔵保長(やすなが)の曾孫であり、次期服部半蔵。皆焼と織田長雄の喧嘩の仲裁に現れる。
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