改易から晩年まで
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1612年(慶長17年)、義父である大久保長安が死去する。 翌1613年(慶長18年)大久保長安事件が起きると、金山経営に関わる大久保家の不正蓄財が疑われ、長安の一族や縁戚に至るまで多くの者が幕府により粛清・処刑された。しかし、正重は長安の娘婿という極めて近い関係にありながら「関わりなし」として一切の咎を受けず、引き続き佐渡で執務に当たるよう幕府より指示を受けた。しかしこの後、幕府の書状を持参した目付を佐渡で待てという指示に反し、対岸の越後国出雲崎に出向いて迎えた事を咎められ改易となった。 同1613年、正重は越後国村上藩主の村上義明(村上頼勝)に身柄を預けられ、許されて義明に仕えた。義明の息子である村上忠勝の妻は花井吉成の娘であったが、その姉は大久保長安の六男である大久保右京長清(権六郎)の妻であった。また吉成自身も長安と同じく松平忠輝の附家老であり、妻は忠輝の異父姉で茶阿局の娘である於八であった。このように、村上家もまた服部家以上に大久保長安との関わりの深い家であった。その後、村上忠勝が改易され、代わって堀直寄が村上藩へ入ると正重は堀家に預け替えとなり、二千石あるいは三千石という藩主一族並みの待遇で堀家に召し抱えられた。 1642年(寛永19年)、藩主堀直定の夭折により堀家が断絶したため、村上藩は一時廃藩となる。暇を出された正重は牢人となり、甲州で息子らと暮らす事となった。 1647年(寛永24年)兄・正就の次男であり桑名藩に仕えていた服部正辰が甲州にいた正重らを探し出し、正辰の家臣であった長嶋五左衛門が正重の元を訪れた。五左衛門の父(同名の長嶋五左衛門)は、正就の家臣として大坂の陣に従い共に討ち死にしており、その子の五左衛門もまた正就の子である正辰に仕えていた。桑名に招かれた正重は、高齢の牢人であったにも関わらず、当時の桑名藩主である松平定綱に二千石の上席年寄(上席家老)という身分と厚遇で召し抱えられた。また、息子の服部正吉、服部七郎衛門も千石の部屋住みとして桑名藩に仕えた。これにより服部半蔵家は桑名藩の家老職家(大服部家)として、明治時代まで存続した。慶安5年/承応元年5月27日(1652年7月2日)正重は73歳で没した。法号は清流院殿澄性日浄大居士。桑名市の顕本寺に、正重や大服部家の墓碑が現存している。 なお、正重の半生について「改易後は仕官先を得るため各地を転々とし、越後三藩に仕官するがそれらの藩も次々と取り潰しや断絶に遭う。その度に正重は牢人となり流浪したが、高齢になると兄の義父である桑名藩主松平定勝や兄嫁(定勝長女の松尾姫)を頼り、桑名で召し抱えてもらった」などと解説するものも多いが、これは誤りであり、正重は佐渡で改易された1613年に村上家預りとなって以降1642年までの29年間にわたり、村上家及び堀家が統治した村上藩に藩主一族並みの厚遇で仕えている。改易され村上家預かりとなった正重は33歳であり堀家断絶で牢人となった時は62歳であった。その後は甲州で暮らし桑名藩に招かれた時には67歳の高齢となっており、兄の義父であった桑名藩主の松平定勝と兄嫁の松尾姫はすでに死去していた。 村上家・堀家譜代の家臣でないにも関わらず藩主交代を経ながら一つの藩に長期間仕えた事や、村上藩・桑名藩における破格の待遇からも、正重が藩政において重用されていた事が窺われる。厚遇の理由については、徳川譜代家臣であった服部半蔵家の経歴や人脈、大久保長安との旧縁、佐渡金山での政務経験、さらに伊賀・甲賀と関わりの深い服部氏族の出身である事などが推察されるが詳細は判明しておらず、今後の研究がまたれる。 正重の兄・正就の妻である松尾は桑名藩主松平定綱の姉であり、その子の服部正辰(正重の甥)らも桑名藩に仕えている。正就と松尾の子孫は久松松平家の血統から藩主一族の扱いを受け、服部半蔵家以上に優遇されていた事から、桑名では服部半蔵を継ぐ正重の子孫の家を「大服部家」、正就の子孫の家を「小服部家」と呼び、大服部家・小服部家ともに代々、久松松平家の家老など重要な職務を担った。
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