改易・斬首
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 14:01 UTC 版)
乱の鎮圧後、寛永15年4月4日(1638年5月17日)、勝家は肥前唐津藩主・寺沢堅高と共に反乱惹起の責任を問われた。勝家は改易、所領を没収され、4月12日には美作津山藩主・森長継に預けられた。『嶋原一揆松倉記』によれば、屋敷にあった桶の中から農民と思われる死体が出てきたため、これが決め手となり、5月になって取り調べのため江戸に護送され、同年7月19日に江戸の森家下屋敷で斬首刑に処せられた。 大坂夏の陣以降、大名が武士に与えられた最期の名誉である切腹さえも許されず斬首刑に処せられたのは極めて異例のことであり、事実上、江戸時代を通じて斬首刑に処された大名は勝家ただ一人だけである。大反乱を引き起こす原因を作った勝家の失政を、幕府側が極めて重大な罪と見なしたことを示している。[要出典] 勝家には2人の弟がいたが、長弟の重利は讃岐国、陸奥国会津と預けられた後、明暦元年(1655年)に自殺。次弟の三弥は命は助けられたものの、浪人となってしまった。重利の系統は300俵の旗本として存続している。
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