改易騒動とは? わかりやすく解説

改易騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 08:30 UTC 版)

相馬義胤 (十六代当主)」の記事における「改易騒動」の解説

慶長7年1602年5月関ヶ原の合戦時に徳川的とされた佐竹義宣は、江戸に近い常陸一国没収され現在の秋田県転封されることになった佐竹氏与力大名であった相馬氏連座して改易されることとなった。義宣から1万石を与えるとして、すなわち家臣として誘われたがこれは丁重に断り改易撤回求め使者として長男相馬蜜胤石田三成偏諱の三胤から改名)を江戸へ向かわせた。この時、水谷胤重記しておいた月夜畑の戦いにおける相馬方の戦死者名簿提出した徳川家重本多正信執り成しもあり、10月改易撤回され所領安堵となった本多忠勝遺文中泉記』では「武士の情け」と題する章で、相馬小太郎(蜜胤)が忠勝の機転競馬勝利し所領安堵勝ち取ったとされている。この逸話は「大穴」の語源となった同年には徳川秀忠養女を蜜胤の正室迎えた慶長8年1603年)、再び小高城居城とし、牛越城は廃城となる。 慶長16年1611年8月21日会津地震発生次いで10月28日慶長三陸地震発生本拠それまで小高城から中村城移転することによって、藩主権力強化するとともに城下集落構築し海岸部には松林造成し内陸部では「堤」=溜池設置するなど、震災復興務めた慶長17年1612年4月、義胤は家督相馬利胤(三胤→蜜胤→利胤と改名。「利」は幕閣重鎮土井利勝偏諱から)に譲り小高城から泉田浪江町北幾世橋)に隠居した慶長19年1614年大坂冬の陣には利胤が出陣翌年1615年)の大坂夏の陣にも利胤が向かうが、その途中病気となり、急遽代わりに義胤が向かった。利胤が寛永2年1625年)に病死すると、孫の2代藩主・虎之助の後見役となり、隠居した後も直接ではないが藩政深く関与していた。 寛永12年1635年11月16日没。享年88

※この「改易騒動」の解説は、「相馬義胤 (十六代当主)」の解説の一部です。
「改易騒動」を含む「相馬義胤 (十六代当主)」の記事については、「相馬義胤 (十六代当主)」の概要を参照ください。

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