その後の板額御前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:06 UTC 版)
捕らえられた板額御前(坂額御前)は鎌倉に護送される。6月28日、将軍頼家の所望により、藤沢清親に伴われて大倉御所に引き出されると、無双の勇女を見ようと御家人達が郡参し、人だかりとなる。傷が癒えておらず、気遣いながらの参上であったが、板額の態度は堂々としてへつらう様子がなく、『吾妻鏡』は勇敢な男子と相対して恥ずかしくない様子であると褒め称えている。顔立ちについては後宮にあってもよいほどだと述べている。翌日、御家人の浅利義遠が頼家に板額の身を預かりたいと申し出る。頼家は「板額は朝敵であり、それを望むのは思惑があるのではないか」と問うと、義遠は「全く特別な思惑はありません、ただ同心の契りを交わしてたくましい男子をもうけ、朝廷を守り武家をお助けするためです」と答えた。頼家は「この者の顔立ちはよいが、心の猛々しさを思えば誰が愛らしく思うだろうか。義遠の望みは他の人間が好む者ではなかろう」としきりにからかい、義遠の望みを許したという。義遠は板額を伴って甲斐国に下向した。
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