その後の楊氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:23 UTC 版)
『十国春秋』巻3によれば、南唐建国後、呉の宗族達は泰州に設けた永寧宮に軟禁された厳重な警備に、軟禁された楊氏の宗族は婚姻もままならず、宗族の男女同士で慰め合ったという。 後周の世宗柴栄が淮南に遠征し、楊氏一族を招こうとすると南唐の元宗李璟は園苑史の尹廷範を遣わして、楊氏一族を京口に迎えようとした。ところが尹廷範が独断で楊溥の弟2人を含む男子60人以上を殺害、女子だけを連れて戻った。その所行に李璟は激怒して尹廷範は腰斬にされた。こうして楊氏は滅亡した。
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