その後の歴史と改装とは? わかりやすく解説

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その後の歴史と改装

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 01:08 UTC 版)

「ヒズ・マジェスティーズ・シアター」の記事における「その後の歴史と改装」の解説

開業以来70年の間、劇場では伝統的なシェイクスピア劇(英語版)や歌劇上演され、また政治集会ボクシング試合開催され映画上映されてきた。劇場は特にその音響良さ知られていた。第二次大戦中劇場は主に映画館として機能していた。というのも旅行会社渡航先制限課されていたためである。 当初所有者だったトーマス・モリーは、様々な相手劇場貸し付けた。その相手中には、ベン・フラー(英語版)とジョン・フラー英語版)、地元プロデューサーであるアニタ・フィッツジェラルド(Anita Fitzgerald)などがいた。その他の借り主としては、ジェイ・シー・ウィリアムソン有限会社あげられる。この会社劇場ミュージカル本場にしたと言われている。劇場1912年に9,000ポンド費用をかけて修理された。そして1948年11,000ポンドかけても一度修理されのである後者修繕には新し舞台裏電気設備取りつけ含まれており、また、その期間は、通り面した部分バルコニー撤去した時期重なっていた。1952年劇場はエッヂリー家が賃借して「ロシア壮大なショー」に使用された。1960年にはエッヂリーとドウのために再度改装され、その費用は7,000ポンド上った。エッヂリーは結局1969年劇場購入することになった。しかし1974年にパース・エンターテインメント・センター(英語版)が完成すると、エッヂリー・プロダクションはそちらに比重移した新しく完成したパース・コンサート・ホール(英語版)も好んで使用されることになったというのも、ヒズ・マジェスティーズ・シアターの設備時代遅れとなり、全体として荒廃進んでいたからである。劇場1976年にサー・ノーマン・リッジ(英語版)に売却された。 数年の間、劇場将来がどうなるのかよくわからないという状態が続き劇場保存しようという運動起きた結果1977年西オーストラリア政府劇場買い上げた。1974年4月選挙での、新し美術館西オーストラリア州美術館英語版))及び文化施設(パース・カルチュラル・センター(英語版))と連動して劇場保持復元を図るという公約こだわった結果1977年にチャールズ・コート(英語版連立政府は1,050オーストラリア・ドルをかけて改装実施したのである劇場改装のために一時的に閉館する前の最後演目は、ギルバート・アンド・サリヴァン・クラブの25周年記念作品である「アイオランセ(英語版)」であった改装には3年当てられ二人建築家ヒルパーキンソン作業監督した。 この改装によって、ホテル劇場複合しているという開業当初から続く状況に、大きな構造上の変化もたらされることになった最初劇場2階建てのコンサート・ホール形式となるよう大きく作り替えることが提案されていた。しかし、建築家であるピーター・S・パーキンソンはこの根本的に劇場設計変更してしまうやり方抵抗し、より変化小さなやり方での修復作業選んだのである客席内では特別席鉄筋コンクリートの床が基準満たさないとして全て交換された。それに加えて上層階一つで、壁が建築時の計画通り支えられているはずなのがそうなっていないことが発見された。厳し非難をあびた支柱は、観客席からの視線妨げならないよう、後退させられた。傾斜のある舞台は、新し平らな舞台交換された。プロセニアム・アーチは2メートル幅が拡げられ、建設当初アーチ漆喰型どりしたもの装飾された。錫の型どり装飾されていた天井も、漆喰で型取ったコピー交換された。屋根のすべり丸天井永久に封鎖され1904年当時設計見合った修飾施された。オーケストラ席も拡げられ、新し照明と、釣り合いを取るための錘(おもり)が設置された。 複合建築のうちのホテル部分は、劇場から切り離された。そして、契約結んでいる西オーストラリア・オペラと西オーストラリア・バレエの本拠地するべく改装された。また、巡業中の他のオペラハウスバレエ団楽屋としても使用できるようにした。そして、もう一棟別の建物劇場後方建てられ新たな衣装室と下稽古室として使用されることになった新し空調装置導入された。 壮大な大理石でできた階段は場所を移され、広い玄関作られた。階段の、大理石作られ踏み板交換されていたが、元々作られた時から変わらない手すりそのまま残された。以前ホテルのスポーツマンズ・バーだった場所は、劇場新し切符売り場として使用されることになったキング通りから入る側面入口は、避難用出口とされた。車の騒音を減らすために、劇場の壁には防音工事施された。 改装中、将来どのように劇場管理していくのが最善なのか、この点について議論起きることとなった。好ましいと考えられ選択肢は、受託団体設立し運営任せることで、そうすれば芸術提供することに最も集中することができ、作品商業的に成功するかどうかといったことに悩まされることがなくなるだろうと考えられのである。しかし、1979年2月8日最高裁判所はヒズ・マジェスティーズ・シアターがTVW有限会社英語版)によって運営されることになった発表した。ところがこの会社対抗相手であるパース・エンターテインメント・センター(Perth Entertainment Centre)の所有者でもあった。そのため、運営内容競合する可能性があることをめぐって激し抗議巻き起こったその結果1979年6月に、TVWは劇場管理辞退することとなった。そして、代わりにパース・シアター・トラストが創設され劇場運営引き継がれることとなった。ヒズ・マジェスティーズ・シアターは、1980年5月28日、ついに営業再開した座席数削られて1,250となった。 ヒズ・マジェスティーズ・シアターは、長きわたって西オーストラリア歴史体現する芸術作品一つ考えられてきた。1978年劇場国民的財産として登録された。1994年4月8日西オーストラリア遺跡建築として暫定的な登録の中に含まれるその後1994年12月16日永久登録とされた。2004年12月劇場は、州の遺産象徴的存在認定された。2001年2月以降舞台芸術博物館本拠地となっている。 2004年には、劇場はその開業100周年を祝うと同時に100周年記念してデイヴィッド・ハフ劇場の歴史についての著作集出版している。2006年には、世界で同じ名前を持ち、現在も残っている唯一の劇場であるスコットランドアバディーンのヒズ・マジェスティーズ・シアター(英語版)と双子縁組み姉妹提携)している。パースのヒズ・マジェスティーズ・シアターは、オーストラリア国内エドワード王朝時代作られ劇場としては、唯一営業しているものだと考えられている。そして劇場は現在、パース・シアター・トラストの代理人であるエイ・イー・ジー・オグデンによって、運営されている。(エイ・イー・ジー・オグデンはパース・コンサート・ホールも管理している。) 2008年、サヴコー(コンクリート鋼鉄使用した修復技術専門とする会社)がヒズ・マジェスティーズ・シアターの精密な調査を行う契約交わした。この調査によって、外装いくつも欠陥があることが明らかとなり、その結果安全性問題があることが指摘された。2010年損傷したコーニスコーベル修復を含む企画実施された。損傷した修飾物は現代修繕モルタル使用して修復され、完全に再現することができた。ミック・サマーズが外装取り巻絢爛豪華な花の制作責任者だった。この花制作は、原型からラテックス型どりをして完成させることができた。構造物劣化により、バルコニーのうちの多くは完全に作り直されることになった。そのバルコニーの持つ多く特徴の内、二枚貝の形の基礎曲線状の外郭漆喰仕上げこうしたものは、多く異な過程経て、ようやく原型再現することができたのであるラテックスによる型どりと、伝統的な建築技術両方用いられて、バルコニー耐久性のあるものにすることができたのだった

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