その後の歴史と改装
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「ヒズ・マジェスティーズ・シアター」の記事における「その後の歴史と改装」の解説
開業以来70年の間、劇場では伝統的なシェイクスピア劇(英語版)や歌劇が上演され、また政治集会やボクシングの試合が開催され、映画が上映されてきた。劇場は特にその音響の良さで知られていた。第二次大戦中、劇場は主に映画館として機能していた。というのも旅行会社に渡航先制限が課されていたためである。 当初の所有者だったトーマス・モリーは、様々な相手に劇場を貸し付けた。その相手の中には、ベン・フラー(英語版)とジョン・フラー(英語版)、地元のプロデューサーであるアニタ・フィッツジェラルド(Anita Fitzgerald)などがいた。その他の借り主としては、ジェイ・シー・ウィリアムソン有限会社があげられる。この会社が劇場をミュージカルの本場にしたと言われている。劇場は1912年に9,000ポンドの費用をかけて修理された。そして1948年に11,000ポンドをかけてもう一度修理されたのである。後者の修繕には新しい舞台裏の電気設備の取りつけが含まれており、また、その期間は、通りに面した部分のバルコニーを撤去した時期と重なっていた。1952年、劇場はエッヂリー家が賃借して「ロシアの壮大なショー」に使用された。1960年にはエッヂリーとドウのために再度改装され、その費用は7,000ポンドに上った。エッヂリーは結局1969年に劇場を購入することになった。しかし1974年にパース・エンターテインメント・センター(英語版)が完成すると、エッヂリー・プロダクションはそちらに比重を移した。新しく完成したパース・コンサート・ホール(英語版)も好んで使用されることになった。というのも、ヒズ・マジェスティーズ・シアターの設備が時代遅れとなり、全体として荒廃が進んでいたからである。劇場は1976年にサー・ノーマン・リッジ(英語版)に売却された。 数年の間、劇場の将来がどうなるのかよくわからないという状態が続き、劇場を保存しようという運動も起きた結果、1977年、西オーストラリア政府が劇場を買い上げた。1974年4月の選挙での、新しい美術館(西オーストラリア州立美術館(英語版))及び文化施設(パース・カルチュラル・センター(英語版))と連動して劇場の保持と復元を図るという公約にこだわった結果、1977年にチャールズ・コート(英語版)連立政府は1,050万オーストラリア・ドルをかけて改装を実施したのである。劇場が改装のために一時的に閉館する前の最後の演目は、ギルバート・アンド・サリヴァン・クラブの25周年記念の作品である「アイオランセ(英語版)」であった。改装には3年が当てられ、二人の建築家、ヒルとパーキンソンが作業を監督した。 この改装によって、ホテルと劇場が複合しているという開業当初から続く状況に、大きな構造上の変化がもたらされることになった。最初、劇場は2階建てのコンサート・ホール形式となるよう大きく作り替えることが提案されていた。しかし、建築家であるピーター・S・パーキンソンはこの根本的に劇場の設計を変更してしまうやり方に抵抗し、より変化の小さなやり方での修復作業を選んだのである。客席内では特別席の鉄筋コンクリートの床が基準を満たさないとして全て交換された。それに加えて、上層階の一つで、壁が建築時の計画通りに梁で支えられているはずなのがそうなっていないことが発見された。厳しい非難をあびた支柱は、観客席からの視線の妨げにならないよう、後退させられた。傾斜のある舞台は、新しい平らな舞台に交換された。プロセニアム・アーチは2メートル幅が拡げられ、建設当初のアーチを漆喰で型どりしたもので装飾された。錫の型どりで装飾されていた天井も、漆喰で型取ったコピーに交換された。屋根のすべり丸天井は永久に封鎖され、1904年当時の設計に見合った修飾が施された。オーケストラ席も拡げられ、新しい照明と、釣り合いを取るための錘(おもり)が設置された。 複合建築のうちのホテル部分は、劇場から切り離された。そして、契約を結んでいる西オーストラリア・オペラと西オーストラリア・バレエの本拠地とするべく改装された。また、巡業中の他のオペラハウスやバレエ団の楽屋としても使用できるようにした。そして、もう一棟、別の建物が劇場の後方に建てられ、新たな衣装室と下稽古室として使用されることになった。新しい空調装置も導入された。 壮大な大理石でできた階段は場所を移され、広い玄関が作られた。階段の、大理石で作られた踏み板は交換されていたが、元々作られた時から変わらない手すりはそのまま残された。以前はホテルのスポーツマンズ・バーだった場所は、劇場の新しい切符売り場として使用されることになった。キング通りから入る側面の入口は、避難用出口とされた。車の騒音を減らすために、劇場の壁には防音工事が施された。 改装中、将来どのように劇場を管理していくのが最善なのか、この点について議論が起きることとなった。好ましいと考えられた選択肢は、受託団体を設立し運営を任せることで、そうすれば、芸術を提供することに最も集中することができ、作品が商業的に成功するかどうかといったことに悩まされることがなくなるだろうと考えられたのである。しかし、1979年2月8日、最高裁判所はヒズ・マジェスティーズ・シアターがTVW有限会社(英語版)によって運営されることになったと発表した。ところがこの会社は対抗相手であるパース・エンターテインメント・センター(Perth Entertainment Centre)の所有者でもあった。そのため、運営内容が競合する可能性があることをめぐって激しい抗議が巻き起こった。その結果1979年6月に、TVWは劇場の管理を辞退することとなった。そして、代わりにパース・シアター・トラストが創設され、劇場の運営が引き継がれることとなった。ヒズ・マジェスティーズ・シアターは、1980年5月28日、ついに営業を再開した。座席数は削られて1,250席となった。 ヒズ・マジェスティーズ・シアターは、長きにわたって、西オーストラリアの歴史を体現する芸術作品の一つと考えられてきた。1978年、劇場が国民的財産として登録された。1994年4月8日、西オーストラリアの遺跡建築として暫定的な登録の中に含まれる。その後、1994年12月16日、永久登録とされた。2004年12月、劇場は、州の遺産の象徴的存在と認定された。2001年2月以降、舞台芸術博物館の本拠地となっている。 2004年には、劇場はその開業100周年を祝うと同時に、100周年を記念して、デイヴィッド・ハフの劇場の歴史についての著作集を出版している。2006年には、世界で同じ名前を持ち、現在も残っている唯一の劇場であるスコットランド、アバディーンのヒズ・マジェスティーズ・シアター(英語版)と双子縁組み(姉妹提携)している。パースのヒズ・マジェスティーズ・シアターは、オーストラリア国内のエドワード王朝時代に作られた劇場としては、唯一営業しているものだと考えられている。そして劇場は現在、パース・シアター・トラストの代理人であるエイ・イー・ジー・オグデンによって、運営されている。(エイ・イー・ジー・オグデンはパース・コンサート・ホールも管理している。) 2008年、サヴコー(コンクリートと鋼鉄を使用した修復技術を専門とする会社)がヒズ・マジェスティーズ・シアターの精密な調査を行う契約を交わした。この調査によって、外装にいくつもの欠陥があることが明らかとなり、その結果安全性に問題があることが指摘された。2010年、損傷したコーニスとコーベルの修復を含む企画が実施された。損傷した修飾物は現代の修繕用モルタルを使用して修復され、完全に再現することができた。ミック・サマーズが外装を取り巻く絢爛豪華な花の制作の責任者だった。この花の制作は、原型からラテックスで型どりをして完成させることができた。構造物の劣化により、バルコニーのうちの多くは完全に作り直されることになった。そのバルコニーの持つ多くの特徴の内、二枚貝の形の基礎と曲線状の外郭、漆喰の仕上げ、こうしたものは、多くの異なる過程を経て、ようやく原型を再現することができたのである。ラテックスによる型どりと、伝統的な建築技術の両方が用いられて、バルコニーを耐久性のあるものにすることができたのだった。
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