その後の水走氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/17 09:27 UTC 版)
鎌倉幕府の滅亡の際には、当主の水走康政はいち早く河内国南部で反幕府の挙兵をした楠木正成に同心して活動するなど機敏な対応をしている。しかし、それに続く、建武の新政に反旗を翻した足利尊氏の挙兵などには同心せず、従来どおり楠木正成に従い、湊川の戦いで楠木正成が敗死した後も楠木正行に味方するなどしたため、高師直らの攻撃を受けて降伏する憂き目を見た。しかし、その後は、河内国守護となった畠山氏のもとで既得権益を縮小しながらも維持し室町時代を生き抜いた。だが、戦国時代になって畠山氏が没落すると水走氏も没落し、枚岡神社の神職として生き残る道を選択せざるを得なくなり、歴史上での活躍は見られなくなる。後に、江戸時代後期に、時の当主、水走忠堅の後、養嗣子となった水走飛騨守忠良は医学を学び、詩文・俳諧につうじた学者となり河内の地に名を残している。現在、子孫はこの地にはなく、東京都に在住している。
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