人類の歴史
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「アンテロープ・バレー」の記事における「人類の歴史」の解説
アンテロープ・バレーに住んだ最初の人類は、カワイイス族、キタネムク族、ソラノ族およびタタビアム族インディアンだった。このバレーにヨーロッパ人が最初に入ってきたのは北アメリカの植民地化が進んだ1770年代のことだった。スペインのフランシスコ会修道士フランシスコ・ガルセス神父が1776年にこのバレーの西端を旅したと考えられている。1808年までに侵略者達はバレーからインディアンを追い出し、あるいは改宗させた。 ジェデディア・スミスが1827年にこの地を通り、ジョン・C・フレモントは他のカリフォルニア探検を行った1844年に科学的観察を行った。 フレモントが訪れたあとはバレーの丘陵部麓に沿った駅馬車道が通り、1876年にサザン・パシフィック鉄道が敷かれるまで開拓者に好まれる道となった。鉄道によってアンテロープ・バレーとセントラル・バレーやロサンゼルスが結ばれて最初の白人開拓者の大量流入が起こり、バレーの平野部には農場や町が出現した。 航空機、現在では航空宇宙産業が1952年のプラント42で基盤を築いた。エドワーズ空軍基地、当時はマロック陸軍航空隊基地が1933年に設立された。
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人類の歴史
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最終氷期の終わりごろ、ロッキー山脈の周辺にはパレオ・インディアン(Paleo-Indians)と呼ばれる原始のネイティブ・アメリカンが住んでいた。パレオ・インディアンは後にアパッチ、アラパホ、クーテナイ、クロウ、シャイアン、ショショーニ、スー、セカニ、デュネザ、バノック、ブラックフット、フラットヘッド、ユートなどの各部族に分化していった。パレオ・インディアンは山麓や谷でマンモスや古代バイソン(現代のアメリカバイソンより20%ほど大きかった)を狩って生活していた。また、彼らはその後分化した子孫たちと同様に、秋や冬には山麓や谷に下りてバイソンを追い、春や夏には山に上って魚を釣ったり、シカやアメリカアカシカを狩ったり、根菜や漿果を採ったりして生活していたとする説もある。コロラド州の大陸分水嶺沿いには、5,400-5,800年ほど前にネイティブ・アメリカンが狩猟に用いるために建てた岩の壁が残っている。ネイティブ・アメリカンはこの地で行った狩りによって哺乳類の生息状況に、また焼畑によって植物の生息状況に影響を及ぼしたとする科学的証拠もある。 その後長くロッキー山脈周辺は未開の地であったが、アメリカ大陸にヨーロッパ人の入植者が入ると山脈の周辺にも探検家が足を踏み入れるようになった。スペイン人探検家フランシスコ・バスケス・デ・コロナドは1540年から1542年にかけて、戦士、使節、アフリカ人奴隷を連れてメキシコからカンザスへと探検を行った。コロナドとその一行はその道中にロッキー山脈の南端、現在のニューメキシコ州の北部を通っていった。コロナド一行はこの地域に馬、金属製の道具、ライフルなど、ネイティブ・アメリカンがそれまで使用していなかった道具を持ち込んだ。また、ヨーロッパ文化も持ち込み、それまでのネイティブ・アメリカンの文化を大きく変えた。一方で、ヨーロッパ人たちはネイティブ・アメリカンたちと戦争を起こし、それまでこの地には見られなかった病気も持ち込んだため、この地域のネイティブ・アメリカンの人口は激減した。 アレグザンダー・マッケンジーは1793年にロッキー山脈を越えた初めてのヨーロッパ人であった。マッケンジーは山中でフレーザー川の上流域を探検し、同年7月20日にカナダの太平洋岸、現在のブリティッシュコロンビア州ベラクーラ(Bella Coola)にたどり着いた。これは、メキシコより北の北アメリカで記録に残っている最初の大陸横断であった。 ロッキー山脈地域で初めて科学的な調査を行ったのはルイス・クラーク探検隊であった。ルイスとクラークの一行は1804年から1806年にわたって行ったその探検の道中、近代植物学者、動物学者、地学者の研究の参考となる標本を多数採取した。ルイスとクラークの探検は「東からのヨーロッパ人にロッキー山脈へ、そしてその先への道を開いた」とされているが、実際には、ルイスとクラークはその探検の最中に少なくとも11人のヨーロッパ人に会っていた。 これらの探検隊のほか、18世紀のロッキー山脈には毛皮や鉱物を求めて山を渡り歩いたヨーロッパ人が多数いた。ノースウェスト会社は1799年、現在のアルバータ州にロッキー・マウンテン・ハウス(Rocky Mountain House)という毛皮取引所を開設した。ライバルであったハドソン湾会社もまた、ロッキー・マウンテン・ハウスの近くにアクトン・ハウス(Acton House)を開設した。これらの取引所は19世紀初頭におけるロッキー山脈地域の探検の基地ともなった。毛皮取引商から探検家・地図製作家に転身したデイビッド・トンプソンは、ヨーロッパ人としては初めてコロンビア川を太平洋まで下る探検を行った。 19世紀を下るとさらに急速に変化が進んだ。19世紀初頭の段階で、北緯49度線より南、現在のアメリカ合衆国領内では白人が既に趨勢を占めるほどになっていた。1832年には、比較的平坦なワイオミングの南部を通る馬車がロッキー山脈を越えて走った。1840年代には、数千人の開拓者がオレゴン・トレイルを通って西をめざすようになった。1847年、ブリガム・ヤング率いるモルモン教徒の一行がロッキー山脈を越えてグレートソルト湖のほとりにたどり着き、ワサッチ山脈西麓の砂漠の中に総本山となるソルトレイク神殿とソルトレイクシティを建設した。 ロッキー山脈の、北のカナダと南のアメリカの間の国境線も徐々に確定していった。1818年のイギリス・アメリカの二国間協議によってロッキー山脈以東の国境は北緯49度と定められ、それより西はオレゴン・カントリーと呼ばれる共同占有の土地となっていた。両国ともにこの地域を領有したいという強い意志があり、1840年代にはオレゴン境界紛争として表面化したが、結局1846年のオレゴン条約によってロッキー以東の国境線をそのまま延伸し、北緯49度を境に北をイギリス、南をアメリカとして分割することで合意に達した。この国境線は現在に至るまでそのまま受け継がれている。 1859年、コロラド州クリップルクリーク(Cripple Creek)の近くで金の鉱脈が見つかると、以後はゴールドラッシュに沸き、地域経済の姿を完全に変えた。この時期にはロッキー山脈を越えて大陸を横断する駅馬車の路線も開設された。1860年4月3日には、当時の鉄道の終点であったミズーリ州セントジョゼフからカリフォルニア州サクラメントまでの間を結ぶ速達郵便サービスであるポニー・エクスプレスが操業を開始し、両都市間を約10日間で結んだ。このポニー・エクスプレスの営業期間はわずか1年半にすぎず、1861年10月にはロッキー山脈を越える最初の大陸横断電信線が開通したことで営業を停止した。1869年にはカリフォルニア州サクラメントから東に延びてきたセントラル・パシフィック鉄道と、ネブラスカ州のオマハから西に延びてきたユニオン・パシフィック鉄道がユタ準州のプロモントリーで接続し、ロッキー山脈を越える大陸横断鉄道が完成した。一方、カナダにおいても1871年に大陸横断鉄道は計画され、カナダ太平洋鉄道はキッキングホース峠とロジャーズ峠を開削して1885年に路線を太平洋までつなげることに成功した。こうして開拓が進む中で、ロッキー山脈地方には次々と新しい州が誕生していった。1876年のコロラド州を皮切りに、モンタナ州(1889年)、アイダホ州(1890年)、ワイオミング州(1890年)、ユタ州(1896年)が次々と加盟し、ニューメキシコ州が1912年に州に昇格したことでロッキー山脈地方はすべて州となった。ただし、これら諸州の加盟順がコロラド州(38番目)、モンタナ州(41番目)、アイダホ州(43番目)、ワイオミング州(44番目)、ユタ州(45番目)、ニューメキシコ州(47番目)だったことからもわかるとおり、ロッキー山脈地方はアメリカ合衆国内でも最も遅い時期に開拓された地域となった。カナダにおいては、1871年にブリティッシュコロンビア州がカナダ自治領に加盟し、1905年にはアルバータ州が加盟した。 一方、19世紀も後半に入ると、ロッキー山脈地域では自然環境の保護への取り組みがなされてきた。1872年には世界初の国立公園となったイエローストーン国立公園が設立された。1891年から1892年にかけては、時のアメリカ合衆国大統領ベンジャミン・ハリソンがロッキー山脈に森林保護区域をいくつも設置した。モンタナ州北部を走っていたグレート・ノーザン鉄道は観光利用を促進するため沿線地域の保護をアメリカ政府に働きかけ、その地域はのちにグレイシャー国立公園に指定された。1905年、セオドア・ルーズベルトはメディスン・ボウ森林保護区域の指定地域をさらに拡大し、現在のロッキーマウンテン国立公園の領域をそこに含めた。1885年には、カナダ初の国立公園であるバンフ国立公園がカナディアン・ロッキー山中に設立された。 こうした19世紀中の動きによって、ロッキー山脈地域では経済開発が始まり、鉱業、林業、農業に加え、サービス業や観光業、リクリエーションも含む複合的な経済成長が進んでいった。探検家や毛皮取引商たちが張ったテントやキャンプは牧場や農場に姿を変え、砦や鉄道の駅を中心として町が建設されていった。デンバーやソルトレイクシティをはじめとしたいくつかの町はその後も成長を続け、都市を形成していった。大陸横断鉄道も、ユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・パシフィック鉄道によるものだけでなく、アメリカ北部ではノーザン・パシフィック鉄道(1883年)とグレート・ノーザン鉄道(1893年)が開通し、南部ではアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道(1881年)、デンバー・アンド・リオグランデ・ウェスタン鉄道などがロッキー山脈を越える路線を建設した。最後の大陸横断鉄道は北部を通るミルウォーキー鉄道のもので、1909年に完成した。カナダにおいては、大平原北部開発のためにカナダ太平洋鉄道線の北に鉄道を建設する機運が生まれ、1914年に太平洋岸のプリンスルパートからプリンスジョージ、ジャスパーを抜けてエドモントンにいたるグランド・トランク太平洋鉄道(Grand Trunk Pacific Railway)(GTPR)が開通した。この鉄道がアメリカ・カナダを通じて最後の大陸横断鉄道であったが、人口希薄な地域を走ることもあって経営が悪化し、5年後の1919年にはカナダ国営鉄道に吸収され、現在まで存続している。
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