オレゴン条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 02:01 UTC 版)
オレゴン条約(オレゴンじょうやく、英: Oregon Treaty または Treaty of Washington)は、1846年6月15日にワシントンD.C.においてグレートブリテンおよびアイルランド連合王国とアメリカ合衆国との間で調印された条約である。1818年の条約からイギリスとアメリカによって共同で占有されていたオレゴン・カントリーに対するアメリカとイギリスの競合する領有権の主張により発生していたオレゴン国境紛争がこの条約によって終了した。
- 1 オレゴン条約とは
- 2 オレゴン条約の概要
オレゴン条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 14:32 UTC 版)
「オレゴン・カントリー」の記事における「オレゴン条約」の解説
1843年、ウィラメット・ヴァレーの入植者たちは、シャンプーイに暫定政府を設立し、1845年にハドソンズ・ベイ会社のジョン・マクラフリンに個人的に(しかし公式ではなく)承認された。 合衆国の政治的な圧力は、オレゴン・カントリー全域の占有へと駆り立てた。アメリカ南部の拡張論者たちはテキサス併合を望み、一方で北東部の拡張論者たちは、オレゴン・カントリー全体の併合を望んだ。テキサスが奴隷制支持となり、オレゴンが奴隷制反対となることは十分起こりえることであり、相対的に力関係が平行してアメリカの拡張が進むことが重要であると見なされた。 1844年の合衆国大統領選挙で、民主党は両地域への拡張を主張した。しかし、ジェームズ・ポーク大統領は選出された後に、オレゴン・カントリーの合衆国への併合の北の境界として、北緯49度線を支持した。それはポークのテキサス拡張には妥協しない姿勢と、オレゴン境界紛争には比較的沈黙する姿勢を表しており、それがオレゴン・カントリーの北の境界と主張されていた「54度40分、さもなくば戦え!(Fifty-Four Forty or Fight!)」という文句に繋がったが、このフレーズはしばしば誤ってポークの選挙戦スローガンと言われている。このスローガンの目的は、オレゴン・カントリーを併合する努力を支援するために、合衆国南部の拡張支持者を糾合することであり(彼らの一部は、奴隷制に賛成のために奴隷制と反奴隷制の州と領土の均衡を崩す目的で、テキサス併合のみを望んだ)、大衆のマニフェスト・デスティニーという通念に訴えていた。一方でイギリス政府は、コロンビア川以北のすべての領土の支配を目論んだ。 二国は最終的に1846年のオレゴン条約で平和的な合意に達し、バンクーバー島全域はイギリスの支配下のまま、北緯49度線に沿ってジョージア海峡までのラインで領土を分けた。この境界は現在も、ブリティッシュコロンビア州と、近接するワシントン、アイダホ、モンタナの各州を隔てている。 1848年、オレゴン・カントリーの合衆国部分は、オレゴン準州として正式に編入された。1849年、 バンクーバー島はイギリス領植民地となり、1858年には本土部分がブリティッシュコロンビア植民地として組織化された。
※この「オレゴン条約」の解説は、「オレゴン・カントリー」の解説の一部です。
「オレゴン条約」を含む「オレゴン・カントリー」の記事については、「オレゴン・カントリー」の概要を参照ください。
- オレゴン条約のページへのリンク