カリフォルニア探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 06:30 UTC 版)
「セバスティアン・ビスカイノ」の記事における「カリフォルニア探検」の解説
1593年、カリフォルニア湾西岸での真珠採取の権利がビスカイノに譲渡された。ビスカイノは3隻の船でバハ・カリフォルニアのラパスまで航行することに成功した。現代のラパスという名前もビスカイノが与えたものである(エルナン・コルテスはサンタクルスと呼んでいた)。ビスカイノはラパスに植民しようとしたが、補給の問題、モラルの低下、火災の発生によって、すぐに撤退することになった。 1601年、ヌエバ・エスパーニャ副王のモンテレイ伯爵ガスパール・デ・スニガ・イ・アセベードは、ビスカイノを第二の探検の長に任命した。今回の探検の目的は、マニラからアカプルコへ帰るスペインのマニラガレオン船のために、アルタ・カリフォルニアの地に安全な港を探すことにあった。また、60年前にフアン・ロドリゲス・カブリリョが探索したカリフォルニアの海岸線を詳細な地図に描くことも要求されていた。1602年5月5日、ビスカイノは3隻の船でアカプルコを出発した。旗艦の名はサンディエゴであり、ほかの2隻の名はサントマスとトレスレイェスであった。 11月10日、ビスカイノはサンディエゴ湾にはいり、その地を命名した。チャンネル諸島のサンタバーバラ島やポイント・コンセプション、サンタ・ルシア山脈、ポイント・ロボス、カーメル川、そしてモントレー湾などの重要な地名はビスカイノの命名に由来する。このため、1542年にカブリリョがつけた名称のいくつかは消え去ることになった。 トレスレイェスの船長であったマルティン・デ・アギラルはビスカイノと別れてさらに北上し、現在のオレゴン州のブランコ岬か、あるいはクーズ湾まで到達した可能性がある。 ビスカイノの航行の結果、モントレーにスペイン人を植民させようという騒ぎがおきたが、間もなくモンテレイ伯爵がペルー副王に転任し、後任者がモントレーに興味をもたなかったため、植民地化にはさらに167年間待たなければならなかった。植民地化のための探検を1607年に行う計画が1606年に許可されたが、延期の後、1608年に放棄された。
※この「カリフォルニア探検」の解説は、「セバスティアン・ビスカイノ」の解説の一部です。
「カリフォルニア探検」を含む「セバスティアン・ビスカイノ」の記事については、「セバスティアン・ビスカイノ」の概要を参照ください。
- カリフォルニア探検のページへのリンク