火災の発生
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「1997年アイシン火災」の記事における「火災の発生」の解説
1997年2月1日午前4時15分 (JST) ごろ、愛知県刈谷市朝日町のアイシン精機刈谷工場で火災が発生した。当初は10人ほどの従業員が消火器で消火を試みたが、火の手が回ったため、午前4時29分に刈谷市消防本部(現:衣浦東部広域連合刈谷消防署)へ通報し、避難した。火災は4時間以上にわたり燃え続けた後、午前8時52分に鎮火された。負傷者は出なかった。 調査報告によれば、火災の原因は不明である。この工場ではトヨタ自動車のブレーキ機構製造に使われる、リアブレーキを押さえることによって滑らないように補助する部品であるブレーキフルードプロポーショニングバルブ(Pバルブ)の製造を担っていた。 この火災によりアイシン精機は工場の機能停止に追い込まれ、トヨタ自動車は部品調達の供給源を断たれることとなった。トヨタ生産方式を採用する同社が保有する在庫は4時間分しかなかった。 トヨタ自動車において使用されるPバルブの99パーセントをこの工場で製造しており、残りの1パーセントは日信工業が製造していた 。Pバルブの生産は複雑かつ、特殊な設備が必要であった。さらに多品種のPバルブが製造されていた。 当該工場の機能停止により、トヨタの自動車製造は1週間の停止を余儀なくされると推定された。これによる経済損失はトヨタ自動車のみならず地域経済および日本経済に及ぶものであり、トヨタ自動車が1日製造を停止するだけで、日本における生産の0.1パーセントが減少するからである。
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火災の発生
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石岡大火の発生する1929年(昭和4年)3月14日は朝から北西の風があり、昼にはその強さを増し、砂塵を巻き上げて日光を遮るほどであった。こうした状況で午後7時30分頃、中町にて火の手が挙がり、風速15mの風に煽(あお)られて東に隣接する金丸町へと拡大し、石岡劇場などを焼いた。火災発生から20分もたたないうちに金丸町から富田町一帯が火に包まれ、「石岡町市街の防火壁」とも呼ばれた石岡の老舗・高喜呉服店の石塀をはじめとして、多くの土蔵が火に飲み込まれた。西に隣接する木之地町へ飛んだ火は、石油倉庫に引火して大爆発を起こし、火勢を増して南隣の守木町を襲い、金毘羅神社を焼失させ、富田町で東からの火と合流した。その炎の凄まじさは、昼間よりも明るいほどであったと伝えられ、火の粉が降り注ぐ中を人々は逃げ惑い、方々で「早く逃げろ」などの怒号が飛び交ったという。 火は富田町から南東方向へ進み、貝地町に向かった。急報を聞きつけた近隣町村の消防組に加え、水戸市や土浦町(現在の土浦市)からも応援が駆け付けたものの鎮火せず、水戸工兵第十四大隊や霞ヶ浦航空隊の出動要請を行って、5時間におよぶ破壊消防の結果、これ以上の火の手の拡大は防がれ、ようやく翌3月15日午前2時頃に火は収まった。焼け跡の空には白煙が立ち上っていた。 自らも石岡大火の被災者である今泉哲太郎は、火災の翌日に一面焼け野原となった石岡の町を巡り、その惨状を記している。今泉によれば、頼るべき親戚や知人の家もすべて焼かれて行き場を失った人々が野山や田畑に逃げ込み、安全が伝えられた清凉寺には本堂や墓地、果ては茶畑や竹林に至るまで、避難した人々や彼らが運び入れた壊れた家財道具で埋め尽くされ、歩く場所さえないほどだったという。
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