火災の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/11 08:14 UTC 版)
午後6時53分、地下線から高架線に登ってブールヴァール・バルベス駅に到着したナシオン行43列車(8両編成)は、先頭車両のモーター付近から煙をあげていた。直ちに乗客をプラットホームに避難させ、集電靴を引き上げたところ発煙はおさまった。このとき駅は帰宅客で混雑していたため、メトロ職員らは早期の運転再開のため43列車を自力で最寄りの待避線まで移動させることにした。これが最初の致命的な失策だった。職員らは発煙の原因は登り坂での過負荷によるものと考えていたが、実際には回路が短絡を起こしていた。 43列車は午後7時05分にブールヴァール・バルベス駅を発車したが、すぐに黒煙を上げはじめ、地下区間に入ると運転席で運転することは困難になった。そこで地下区間最初の駅であるコンバ(Combat)駅(現コロネル・ファビアン駅)で停車し、集電靴を上げると火災はおさまった。しかし再び集電靴を下ろすと火災が再発し、今度は集電靴を上げることすらできなくなってしまった。木製の部品が焼け落ちてしまったためである。運転士は車外に避難したが、最後尾の運転台から運転することは構造上不可能だったので、後続列車に押してもらうことで43列車を移動させようとした。 このとき後続の52列車(4両編成)はブールヴァール・バルベス駅で43列車から下ろされた乗客を乗せ、リュ・ダルマーニュ駅まで来て信号の開通するのを待っていた。乗客はホームに降ろされ、52列車はコンバ駅まで進んで43列車の後尾に連結された。7時32分、連結された43・52列車は52列車先頭車のモーターのみを使ってゆっくりと発車した。 同じ頃、さらに後続の48列車(4両編成)がリュ・ダルマーニュ駅に到着し、43列車・52列車からの乗客を乗せて地下線に進入した。 43・52列車は次のベルヴィル駅に到着した。ここには待避線があったが、43列車を待避線に入れることに失敗した。そこでそのまま8駅先の終点ナシオン駅まで向かうことにした。次のクロンヌ駅を通過した際には、駅長が火災が激しくなっていることに気づいていた。48列車がクロンヌ駅に到着したときには、前方のトンネル内には煙が充満しており、運転士は駅長と対応を協議した。 ここに至ってようやくメトロ職員らは危険を認識し、48列車の運転を打ち切って乗客を地上に避難させることにした。しかし乗客たち、特に43列車や52列車から下ろされた者たちの一部はこの措置に不満であり、運賃の払い戻しなどを要求したため駅は混乱した。こうして貴重な時間が浪費された。 43・52列車が次のメニルモンタン駅に着いたときには、火災はもはや手のつけられないほど激しくなっており、運転士らは運転を断念してホームに脱出した。最寄りの変電所から第三軌条への給電が打ち切られたが、この路線は電気的に複数のセクションに分割されてはいなかったため、他の変電所からの電力は供給されたままだった。このため短絡した回路には電流が流れ続けた。 午後8時ごろ、駅の照明用の電力を供給していたケーブルが火災のため焼き切れ、クロンヌ駅は闇に包まれた。同時にメンモルタン駅からトンネルを伝って煙がクロンヌ駅に流れ込んできた。駅にいた乗客らは暗闇のなか煙に巻かれ、道に迷い出口にたどり着くことができず次々と窒息した。乗客の一部は煙の流入するメンルモンタン側と反対の方向に逃げようとしたが、ホームのそちら側には階段がなかった。 最終的に死者は84人に達した。うち75人はクロンヌ駅で、7人はメンルモンタン駅で、2人はトンネル内で発見された。43・52列車の車体は台枠を残して完全に燃え尽きていた。
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火災の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 22:38 UTC 版)
2013年6月28日午後5時36分ごろ、フェニックスの北方130㎞付近にある、700人ほどの住民が住んでいるヤーネル近辺に落ちた雷が火災を発生させた。6月30日には、時速35㎞という強風が後押しして類焼面積は120ヘクタールから810ヘクタールにまで広がった。この地域では長期的な干ばつが続いており、38℃という気温も急速な延焼の一因とされている。 7月1日までに類焼面積は3,400ヘクタールにまで広がり、近隣のコミュニティであるピープル・ヴァレーの住民は避難を余儀なくされた。火災は400人以上の消防士をもってしても完全に制御不能になった。7月2日、火災の8%は封じ込められ、過去24時間の類焼は見られなかった。7月3日には45%が封じ込められ、これ以上の拡大も見込まれなかったことから、避難していたピープル・ヴァレーの住民は7月4日までには帰宅を遂げ、4日後の7月8日にはヤーネルの住民も帰宅した。そして7月10日に火災は完全に消し止められた。 ヤヴァパイ郡警察はヤーネルにて127棟の建築物が、ピープル・ヴァレーで2棟が火災によって破壊されたと発表した。また、警察は火災の引火点はヤーネルのグレン・イラー地区であり、その近辺では半数以上の建築物が焼失したと発表した。火災の間、アリゾナ州道89号線は40㎞にわたって封鎖され、鎮火後も24㎞の区間は7月30日まで封鎖された。 ヤーネルには全面避難命令が、ピープル・ヴァレーには一部避難命令が発令され、合計で少なくとも600人が避難した。避難所はプレスコット市のヤヴァパイ大学に設置され、赤十字によってブランケットや食料の配布、医療手当てなどが行われた。また、州道89号線が封鎖されてヤヴァパイ大学へ向かえない住民のためにマリコパ郡の高校にも避難所が設置され、赤十字によると351人がそこで避難生活を送った。
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