第二の探検(1650年-1653年)
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「エロフェイ・ハバロフ」の記事における「第二の探検(1650年-1653年)」の解説
「清露国境紛争」も参照 提案に対するモスクワからの返事が遅れているため、フランツベコフ総督は自らの権限で探検隊を組織することを決め、ハバロフに大規模な部隊を与えて南へと送りだした。フランツベコフは「ダウリヤの公」たち(アルバジンのラヴカイ公や、ボグドイ公など、ダウリヤ各地にいるとされた部族の長たち)に宛てたツァーリ・アレクセイからの書簡も持たせた。この書簡では、ダウリヤの公らに対してロシアのツァーリに服従することを要請し、もし従わない場合は6000人からの軍隊を送ると脅していた。フランツベコフは、ダウリヤにいると聞く「ボグドイ公」(Князь Богдой)はシベリアの酋長のようなものではないかと考えていたが、これは実際には中国皇帝のことを指す言葉だった。 ハバロフの部隊は1650年の秋に丘を越えてシルカ川に至ったが、今度は武装した住民らによる抵抗を受けた。川を下ったハバロフは、アムール川が最も北に達している地点でアルバジに率いられたソロン部(索倫部)のダウール族・オロチョン族らを破り、ソロン部の中心であったヤクサ(雅克薩)にアルバジンという越冬用の要塞を築いた。翌1651年6月にはヤクーツクからの増援もアルバジンに到着した。ハバロフは軍勢を率いてアムール川を下り、流域の先住民を制圧していった。ゼヤ川、ブレヤ川の合流点を過ぎ、9月にはスンガリ川(松花江)の合流点に達した。9月29日、ウスリー川との合流点にあるアチャンスク(Ачанск、現在のハバロフスク付近、周囲に「アチャンス」とロシア人が呼んだ部族が住んでいたため名づけられた )という所で越冬することを決めた。10月8日にはアチャンスおよびドゥチェル(дючеры, おそらくツングース系の部族名をロシア人がこう聞きとったもの)の連合軍1,000人ほどが要塞に攻めよせたがこれを撃退している。こうした部族は、コサックが課す重い貢納(ヤサク)の徴収に反発していた。ロシア人たちはアチャンスクを拠点として、11月にはジャクシュル(Жакшур)に率いられた部族を、冬にはネチガ(Нечига)に率いられた部族を襲い、彼らから多数の貢物を取り立て、ロシアのツァーリへの臣従を誓わせた 。ハバロフはこの過程で、アムール川の地理を「アムール川図」(Чертёж реки Амур)にまとめている。 しかし清領内の満州北部におけるロシア人のこうした行動は、清の軍事行動を呼び起こした。ニングダを発った2,000人の清軍(満族とダウール人の混成部隊)は、1652年3月24日、アチャンスク要塞のロシア人を包囲し攻撃を始めた。ハバロフらはなんとかこの攻撃を凌いだが、より多くの清軍が続くことを恐れ、アムール川の氷が解けるとアチャンスク要塞を放棄して上流へと退却した。途中で6,000人の清軍と対峙したが、霧にまぎれて退却することに成功した。ハバロフは捕虜から、スンガリ川にさらに多くの清軍が集結していると聞いた。さらに上流では117人のコサックの増援と合流した。この増援部隊は、先にハバロフ一行を探すための先遣隊が出ているが知らないかとハバロフ一行に尋ねたが、ハバロフは先遣隊には遭わなかったと答えた。行方不明になった先遣隊を探すべきだとの声が出たがハバロフはこれを無視して上流へ向かおうとし、部隊内部での亀裂が広がり始めた。1652年8月1日にはゼヤ川の河口へ到達したものの、一行のうちコサックのステンカ・ポリャコフに率いられた136人が反乱を起こした。ハバロフの側には212人だけが残った。ハバロフはこの日、どこに越冬地を作るべきかという疑問を口にしたが、これがゼヤ川に留まって清軍の攻撃を待つべきかと受け止められてしまったとハバロフは報告で言及している。この後、秋から冬にかけてハバロフ側とポリャコフ側は戦闘に入るが、最終的にはハバロフ側が反乱側を制圧した。ハバロフがゼヤ川の越冬地からヤクーツクのフランツベコフに送った報告には、彼らの一行が村々を焼き払い、原住民を殺し、捕虜を拷問した様が綴られている。 1653年秋、ドミトリー・ジノヴィエフに率いられた150名の増援部隊が到着した。貴族であるジノヴィエフは指揮権の完全な移譲を要求したが、ハバロフは拒み、逮捕された。しかしジノヴィエフも、ハバロフの部下たちからは協力を得られず、清との交渉も成り立たなかったため、一部を残してアムール川からヤクーツクへ引き上げることを決めた。オヌフリー・ステパノフ(Онуфрий Степанов)が後に残った兵の指揮官となり、以後アムール川沿いを転戦して村を襲ったり毛皮を取り立てたりしたが、1658年6月30日、清の将軍サルフダ(沙爾虎達)が率いる水軍に囲まれ(松花江口の戦い)、部隊は壊滅した。
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