第二の探検とは? わかりやすく解説

第二の探検(1650年-1653年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/01 05:05 UTC 版)

エロフェイ・ハバロフ」の記事における「第二の探検(1650年-1653年)」の解説

清露国境紛争」も参照 提案対すモスクワからの返事遅れているため、フランツベコフ総督は自らの権限探検隊組織することを決めハバロフ大規模な部隊与えて南へ送りだした。フランツベコフは「ダウリヤの公」たち(アルバジンのラヴカイ公や、ボグドイ公など、ダウリヤ各地にいるとされた部族の長たち)に宛てたツァーリ・アレクセイからの書簡持たせた。この書簡では、ダウリヤ公らに対してロシアのツァーリ服従することを要請し、もし従わない場合6000人からの軍隊を送ると脅していた。フランツベコフは、ダウリヤにいると聞く「ボグドイ公」(Князь Богдой)はシベリア酋長のようなものではないか考えていたが、これは実際に中国皇帝のことを指す言葉だった。 ハバロフ部隊1650年秋に丘を越えてシルカ川至ったが、今度武装した住民らによる抵抗受けた。川を下ったハバロフは、アムール川が最も北に達している地点でアルバジに率いられソロン部(索倫部)のダウール族オロチョン族らを破りソロン部の中心であったヤクサ雅克薩)にアルバジンという越冬用の要塞築いた。翌1651年6月にはヤクーツクからの増援アルバジン到着したハバロフ軍勢率いてアムール川下り流域先住民制圧していったゼヤ川ブレヤ川合流点を過ぎ、9月にはスンガリ川(松花江)の合流点達した9月29日ウスリー川との合流点にあるアチャンスク(Ачанск、現在のハバロフスク付近周囲に「アチャンス」とロシア人呼んだ部族住んでいたため名づけられた )という所で越冬することを決めた10月8日にはアチャンスおよびドゥチェル(дючеры, おそらくツングース系部族名をロシア人がこう聞きとったもの)の連合軍1,000人ほどが要塞攻めよせたがこれを撃退している。こうした部族は、コサック課す重い貢納(ヤサク)の徴収反発していた。ロシア人たちはアチャンスクを拠点として、11月にはジャクシュル(Жакшур)に率いられ部族を、冬にはネチガ(Нечига)に率いられ部族襲い、彼らから多数貢物取り立てロシアのツァーリへの臣従を誓わせた 。ハバロフはこの過程で、アムール川地理を「アムール川図」(Чертёж реки Амур)にまとめている。 しかし清領内満州北部におけるロシア人こうした行動は、清の軍事行動呼び起こしたニングダ発った2,000人の清軍(満族ダウール人混成部隊)は、1652年3月24日、アチャンスク要塞ロシア人包囲し攻撃始めたハバロフらはなんとかこの攻撃凌いだが、より多くの清軍が続くことを恐れアムール川の氷が解けるとアチャンスク要塞放棄して上流へと退却した途中で6,000人の清軍と対峙したが、まぎれて退却することに成功したハバロフ捕虜から、スンガリ川にさらに多くの清軍が集結していると聞いた。さらに上流では117人のコサック増援合流した。この増援部隊は、先にハバロフ一行探すための先遣隊出ているが知らないかとハバロフ一行尋ねたが、ハバロフ先遣隊には遭わなかったと答えた行方不明になった先遣隊探すべきだとの声が出たハバロフはこれを無視して上流向かおうとし、部隊内部での亀裂広がり始めた1652年8月1日にはゼヤ川河口到達したものの、一行のうちコサックのステンカ・ポリャコフに率いられ136人が反乱起こしたハバロフの側には212人だけが残ったハバロフはこの日、どこに越冬地作るべきかという疑問を口にしたが、これがゼヤ川に留まって清軍の攻撃を待つべきかと受け止められてしまったとハバロフ報告言及している。この後、秋から冬にかけてハバロフ側とポリャコフ側は戦闘に入るが、最終的にハバロフ側が反乱側を制圧したハバロフゼヤ川越冬地からヤクーツクのフランツベコフに送った報告には、彼らの一行々を焼き払い原住民殺し捕虜拷問した様が綴られている。 1653年秋、ドミトリー・ジノヴィエフに率いられ150名の増援部隊到着した貴族であるジノヴィエフ指揮権の完全な移譲要求したが、ハバロフ拒み逮捕された。しかしジノヴィエフも、ハバロフ部下たちから協力得られず、清との交渉成り立たなかったため、一部残してアムール川からヤクーツク引き上げることを決めたオヌフリー・ステパノフ(Онуфрий Степанов)が後に残った兵の指揮官となり、以後アムール川沿いを転戦して襲った毛皮取り立てたりしたが、1658年6月30日、清の将軍サルフダ(沙爾虎達)が率い水軍囲まれ松花江口の戦い)、部隊壊滅した

※この「第二の探検(1650年-1653年)」の解説は、「エロフェイ・ハバロフ」の解説の一部です。
「第二の探検(1650年-1653年)」を含む「エロフェイ・ハバロフ」の記事については、「エロフェイ・ハバロフ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第二の探検」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第二の探検」の関連用語

第二の探検のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第二の探検のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのエロフェイ・ハバロフ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS