第二の改心
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「バルトロメ・デ・ラス・カサス」の記事における「第二の改心」の解説
ラス・カサスの提案により、シスネロス枢機卿の指示でインディアス審議会が発足。インディアスへの調査団の派遣を決定した。調査団はヒエロニムス会の修道士たちによって構成されており、ラス・カサスはインディオ保護官という肩書きで現地に同行した。調査団は忠実に職務を遂行したが、ラス・カサスから見れば手ぬるいものであったため、まもなく両者は対立することになった。調査団とラス・カサスがスペインに戻ると、死期が近づいていたシスネロス枢機卿はすでに権勢を失っており、まもなく死去した。しかたなくラス・カサスは新王カルロス1世(カール5世)に謁見することにし、謁見許可を待つ間、ドミニコ会神学院において法学・神学の知識を深めた。やがて王の側近ジャン・ル・ソヴァージュの知遇を得ると、王から暴力的行動を禁止し、平和的植民のみを許可する勅令を得ることができた。これを実践しようとしたラス・カサスは自ら植民団をひきいてクマナー地方で平和的植民活動を行ったが、うまくいかず植民者たちはラス・カサスのもとを去った。インディアスのスペイン人たちの間でラス・カサスへの反感が強まり、命の危険を感じたラス・カサスは、ドミニコ会員たちのすすめに従ってドミニコ会に入会、修道院にかくまわれる形で研究に専念した。これが「第二の改心」である。研究活動の中で、当時の著名な神学者カジェタヌス枢機卿が「征服戦争の正当性を立証する神学的根拠は何もない」という意見を持っていることを知り、大いに励まされた。『布教論』とよばれる著作はこのころ書かれたが、現在では一部分しかのこっていない。 1526年9月、インディアス事情に精通しているということで、ラス・カサスはエスパニョーラ島に新しく出来たドミニコ会修道院の院長任命を受けた。このころ、『インディアス史』の執筆を始めているが、2年前の1524年にはすでにインディアス評議会は枢機会議に格上げされており、王の直属機関となっていた。これは当時スペイン国内でインディアスの扱いについての関心が高まっていたこと、植民者たちの目にあまる行為とインディオへの虐待を問題視する意見が強かったことを示している。ラス・カサスはしきりに枢機会議に書簡を送っては現状を報告していた。その後はインディアス各地ですすめられたインディオ征服を批判しながら、インディオへの平和的布教に取り組んだ。ラス・カサスの地道な啓蒙活動はヨーロッパにおいて徐々に評価されるようになっており、1537年には教皇パウルス3世がインディオの奴隷化を禁止する勅令『スブリムス・デウス』を出している。また、グァテマラからメキシコに赴いて活発な活動を続けた。
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