ノース内閣期の平議員として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 03:06 UTC 版)
「ジョージ・ジャーメイン (初代サックヴィル子爵)」の記事における「ノース内閣期の平議員として」の解説
1770年11月にグレンヴィルが死去すると、今度はロッキンガム侯爵がジャーメインを自派に引き入れようとし、ジャーメインを1771年1月から2月にかけての自派の会合に招待したが、ジャーメインはロッキンガム派(英語版)の政見に賛成しておらず、1772年末にイギリス東インド会社の規制をめぐる法案でノース内閣を支持して野党だったロッキンガム派を失望させた。 その後の2年間には特定の会派に属しなかったが、1773年5月にロバート・クライヴを擁護するなど議会での演説を精力的に行い、『英国下院史(英語版)』はこの時期をジャーメインの演説者としての影響力が最も大きかった時期であるとして、中でも1774年初の米州植民地に関する演説を影響力の最も大きい演説とした。 1774年初にはボストン茶会事件によりボストン港法(英語版)やマサチューセッツ政府法(英語版)などの対策法が可決されたが、ジャーメインは1774年5月2日の演説でこれらの施策を擁護、「近くに座っている名誉ある紳士(ヘンリー・シーモア・コンウェイ)は論争が些細な事柄、すなわち税金に関するものであると述べた。誰がこのような主題に論議するか?ただ税金を諦めるだけでアメリカを沈静化できるならば、[...]その方策に飛びついて、平和、そして母国と植民地の意志疎通を促進すべきではないか?しかし、今税金を諦めたら、[...]私たちはグレートブリテンの憲法から離れることになる。ここで立場を堅持しなければ、私たちのうち最も有能の人でも(本国の)主権を支持する根拠を見つけられないだろう。[...]ここで退いたら、あいつらは全ての権利を主張して、私たちの議会(Parliament)をあいつらの議会(assembly)に取り替えるだろう。」と述べた。
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