ノース内閣の大臣として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 03:06 UTC 版)
「ジョージ・ジャーメイン (初代サックヴィル子爵)」の記事における「ノース内閣の大臣として」の解説
1774年4月には早くもジャーメインへの官職任命や軍階の復帰が噂されたが、彼は1775年10月にも首相ノース卿からの「いかなる植民地との紛争を決着させる権限つきで」アメリカに向かうとの打診を断り、11月に招聘を受けてアメリカ担当国務大臣に就任した。また第一商務卿にも任命され、1779年まで務めた。 アメリカ担当国務大臣としてアメリカ独立戦争対策に精力的に関わり、「根気よく募兵計画を立て」(ホレス・ウォルポールの言葉)、「1年目の戦役ですべてを終わらせられると信じ、これによって自身の大臣としての名声を打ち立て」(ベテラン議員ジョージ・セルウィン(英語版)の言葉)ようとした。また、武力をもって米州植民地を再征服するのではなく植民地の人民の良識を頼るべきとして、ロイヤリスト部隊の助けを借りた。 しかし、閣僚や陸軍指揮官の大半との折り合いが悪く、ウィリアム・ハウとジョン・バーゴインの帰国にあたり2人の作戦失敗を責め、大法官の第2代バサースト伯爵ヘンリー・バサーストや海軍大臣の第4代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギューとも言い争った。バーゴインがサラトガの戦いでアメリカ軍に降伏して、ハウが辞任を申し出るとジャーメインはジョージ3世の信任も失い、ジョージ3世が1778年1月にノース卿に対し、ハウとジャーメインのどちらを引退させるべきか諮問する結果となった。ジャーメインはちょうどこの時期に妻が死去していて悲しんでいたが、結局説得されて留任した。 1778年5月に五港長官(英語版)への転任を申請したが、その一環としての内閣改造が失敗に終わったため結局沙汰止みとなり、アメリカ担当国務大臣に留任した。しかし、ジョージ3世や閣僚に嫌われ、陸軍から不信感を抱かれた状態での留任であり、1779年に第一商務卿から解任されたとき(後任は第5代カーライル伯爵フレデリック・ハワード)も「返す言葉もない」(I have no reply to make)とノース卿に返答した。『英国下院史(英語版)』はこの「ジャーメインがアメリカにおける軍事作戦への責任を負うものの、陸軍への権威は少なく、海軍への権威は全くなかった」状態をイギリスの敗因の1つとして挙げた。 野党も20年前のミンデンの戦いを取り上げてジャーメインを臆病であるとして攻撃した。また、野党は国務大臣が南部担当、北部担当、アメリカ担当に分かれているという制度の改革を財政改革に結び付け、経費削減を理由にアメリカ担当大臣の廃止を主張したが、これは同時にジャーメインとジョージ3世への嫌がらせにもなった。 戦況がさらに悪化した1780年5月にはヘンリー・シーモア・コンウェイが対米戦争で講和して、フランス王国とスペイン王国との戦争に集中するとの動議を提出、エドマンド・バーク、チャールズ・ジェームズ・フォックス、第3代リッチモンド公爵チャールズ・レノックスが賛意を表明したが、ノース内閣は拒否、ジャーメインはこの動議の影響として「フランスとアメリカはすぐにでも強力な軍勢をニューファンドランド(英語版)に送り、私たちの漁場を奪い、海軍の養成所を破壊するだろう。その次はカナダで、西インド諸島での領有地ももぎ取られる」と述べた。 1781年10月、第2代コーンウォリス伯爵チャールズ・コーンウォリスがヨークタウンの戦いで敗れて降伏するが、ジャーメインは庶民院での発言で引き続きアメリカを維持することの重要性を説き、1782年1月になってもアメリカを失うことは「ヨーロッパ諸国におけるイギリス帝国の地位を破滅させることになる」と戦争を継続すべきとの主張を崩さなかった。
※この「ノース内閣の大臣として」の解説は、「ジョージ・ジャーメイン (初代サックヴィル子爵)」の解説の一部です。
「ノース内閣の大臣として」を含む「ジョージ・ジャーメイン (初代サックヴィル子爵)」の記事については、「ジョージ・ジャーメイン (初代サックヴィル子爵)」の概要を参照ください。
- ノース内閣の大臣としてのページへのリンク