ノース内閣期(1770年 – 1782年)
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「ウェルボア・エリス (初代メンディップ男爵)」の記事における「ノース内閣期(1770年 – 1782年)」の解説
ノース内閣が成立した後、1770年4月31日にアイルランド副大蔵卿を再任した。この時期においても植民地への強硬な態度を崩さず、1770年3月の演説で(アメリカにおける)「すべての混乱は印紙法の廃止に起因する」(All the confusion that has taken place [in America] is [...] totally owing to the repeal of the Stamp Act)と述べ、首相ノース卿フレデリック・ノースが提出したタウンゼンド関税法の部分撤廃法案に反対した。アメリカ独立戦争の勃発直後、1775年2月にノース卿が提出した和解決議(英語版)にも「アメリカ人からの、私たちの優位に対する明示的かつ決定的な承認がない」(without an express and definitive acknowledgement from the Americans of our supremacy)として反対した。 植民地以外では1771年にロンドン市長ブラス・クロスビー(英語版)の議会議事録出版問題をめぐって弁論を主導し、クロスビーのロンドン塔送りを動議して可決させた。1774年イギリス総選挙でウェイマス・アンド・メルコム・レジスに鞍替えして再選、1780年と1784年の総選挙でも再選した。 1777年3月にアイルランド副大蔵卿を辞任、同年6月10日に海軍会計長官(英語版)に就任した。さらに1782年2月11日にはジョージ・ジャーメイン卿の後任としてアメリカ担当国務大臣に就任した。このとき、イギリスはアメリカ独立戦争で不利な情勢になっており、『英国議会史(英語版)』ではエリスが「信用されなくなった政策を継承し、崩れそうになった内閣に入閣した」(inherited a discredited policy, and joined a Cabinet tottering to its fall)と評し、さらに「ノース内閣を救える人はいない」(no one could have saved North’s Administration)と評した。それでも2月22日に「好戦的」(bellicose、『オックスフォード英国人名事典』による評価)な演説をして、戦争継続を支持したが、エドマンド・バークに厳しく批判された。3月15日の弁論で連立内閣の組閣を支持したが、数日後には首相ノース卿が辞任、エリスも国務大臣を退任した。
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