アイルランド副大蔵卿(1755年 – 1762年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 07:35 UTC 版)
「ウェルボア・エリス (初代メンディップ男爵)」の記事における「アイルランド副大蔵卿(1755年 – 1762年)」の解説
政界でのパトロンにヘンリー・フォックスがおり、1755年9月にフォックスが南部担当国務大臣に就任すると、フォックスはエリスの昇進を要求した。フォックスはエリスを戦時大臣に就かせようとして失敗した後、下級大蔵卿(Lord of Treasury)への就任を打診したが、エリスは下級大蔵卿を務めたがらず、12月に下級海軍卿からアイルランド副大蔵卿(英語版)に転じた。1756年11月のピット=デヴォンシャー公爵内閣ではおそらく首相の第4代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュにより再び戦時大臣に推されたが、国王ジョージ2世は第2代バリントン子爵ウィリアム・バリントンを選んだ。 1757年5月にピット=デヴォンシャー公爵内閣崩壊の理由となった動議を提出した。そのため、6月に大ピットがニューカッスル公爵と手を組み、第2次ニューカッスル公爵内閣を組閣したときは危うく解任されるところだったが、結局留任した。1760年にはニューカッスル公爵への申請を経て1760年3月20日に枢密顧問官に就任した。1761年、今度はサー・トマス・ロビンソンに官職を与えるためという理由で再び解任の危機に陥ったが、第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートへの申請を経て留任した。 1761年イギリス総選挙ではウェイマス・アンド・メルコム・レジスでの推薦を受けられず、代わりにフォックスの助言を受けてエイルズベリー選挙区(英語版)から出馬した。エイルズベリーはいわゆる「金で動く」選挙区(venal borough)であり、エリスは妻の父スタンホープが影響力を有し、ニューカッスル公爵からの支持を受けているといった有利な情勢にありながら、当選に2,000ポンドも費やした。
※この「アイルランド副大蔵卿(1755年 – 1762年)」の解説は、「ウェルボア・エリス (初代メンディップ男爵)」の解説の一部です。
「アイルランド副大蔵卿(1755年 – 1762年)」を含む「ウェルボア・エリス (初代メンディップ男爵)」の記事については、「ウェルボア・エリス (初代メンディップ男爵)」の概要を参照ください。
- アイルランド副大蔵卿のページへのリンク