アイルランド反乱鎮圧に失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 06:55 UTC 版)
「ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)」の記事における「アイルランド反乱鎮圧に失敗」の解説
エセックス伯は立場挽回のために再び大きな戦功を欲するようになった。アイルランドでは1594年からティロン伯の反乱が発生しており、イングランド軍は1598年8月にイエロー・フォードの戦い(英語版)でティロン伯の軍に大敗して危機的状況に陥っていた。これを鎮圧できれば大きな戦功になると考えたエセックス伯は、1598年8月末頃からアイルランド総督職就任を希望するようになった。 しかし女王はこの頃、アイルランド総督として第8代マウントジョイ男爵(英語版)チャールズ・ブロウント(英語版)を考えていた。これに対してエセックス伯は「アイルランドに赴く人物は貴族の中でも一流の人物であるべきで、権威と名誉と富において、また軍人としての名声においても輝かしい人物でなければならない」と主張し、この人事に反対するとともに暗に自分を推した。女王は1599年1月になってしぶしぶエセックス伯をアイルランド総督に任じた。 遠征軍組織のために女王は25万ポンドも注ぎ込み、エセックス伯の名声も加わって志願兵は数多く集まった。1599年3月末に国民の大歓声に見送られながらエセックス伯は1万6000の歩兵と1300の騎兵を率いてロンドンを発ち、アイルランドへ出征した。サウサンプトン伯やクリストファー・ブロウント(英語版)(母レティスの再婚相手でエセックス伯爵家の主馬頭)など個人的友人たちも多く連れて行った。 4月にダブリンに到着したが、北アイルランドのアルスターに向かう予定を変更して、南アイルランドに上陸して無駄な交戦を繰り返した。その結果いたずらに兵と戦費を消耗させた。1599年6月には本国でセシルが後見裁判所長官に任命されたことを知って焦燥を募らせ、女王に書簡を送ったが、7月には女王から叱責の返信を送られ、「即刻アルスターに進軍し、ティロン伯を成敗するまでアイルランドから離れてはならない」と厳命された。 しかしこの時点でエセックス伯の軍は4000人に激減しており、しかも8月初旬にはコノートの反乱により遠征軍はさらに大打撃を被った。そのためアルスターに進軍しても勝利の見込みはなかった。9月上旬にティロン伯から和議の使者が送られてくるとエセックス伯は独断でこれに応じ、ティロン伯と会見して春まで延長可能な休戦協定を締結した。また女王から騎士の叙任は慎重にと命じられていたのに、エセックス伯は8月23日までに59人も騎士に叙していた。 激怒した女王は再びエセックス伯叱責の手紙を送ってきた。エセックス伯は女王の勘気を解くには直接弁明するしかないと判断し、9月24日に軍を置き去りにしてサウサンプトン伯やブロウントなど6名の側近とともにダブリンを出港してロンドンへ向かった。
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