ホイッグ党員として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 07:39 UTC 版)
「ヘンリー・ブリッジマン (初代ブラッドフォード男爵)」の記事における「ホイッグ党員として」の解説
トーリー党内閣であるビュート伯爵内閣期(1762年 – 1763年)にポウィス伯爵が野党から与党に転じると、ブリッジマンも1762年12月には七年戦争の予備講和条約を支持したとされた。しかし、グレンヴィル内閣期(1763年 – 1765年)には再び野党に転じ、1763年秋から1764年2月にかけて数回野党に同調して投票したため、宮廷職を解任された。1764年7月25日に父が死去すると、準男爵位とキャッスル・ブロミッチ(英語版)の地所を継承した。第1次ロッキンガム侯爵内閣期(1765年 – 1766年)には与党に所属したとされ、チャタム伯爵内閣期(1766年 – 1768年)ではチャタム伯爵派とロッキンガム侯爵派が決裂したときもニューカッスル公爵に辞任しないよう説得した。 1766年春にシュロップシャー選挙区(英語版)選出の議員リチャード・リスター(英語版)が重病に陥ると、ブリッジマンはロバート・モア(英語版)、トマス・ウィットモア(英語版)、ブルック・フォレスター(英語版)(3人ともにシュロップシャーの選挙区の代表として議員を務めた経験があった)の支持を受けて出馬を検討したが、クライヴ男爵の勢力が中立を決め、ポウィス伯爵がブリッジマンの選出に反対したため、ブリッジマンは補欠選挙の数日前に立候補辞退を発表した。1768年イギリス総選挙でもシュロップシャーからの出馬が噂されたが、実際にはブリッジマン家が一定の影響力を有するウェンロック選挙区(英語版)でフォレスター家の支持も得て当選した。二家は支出を折半する形で協力し続け、ブリッジマンは1774年、1780年、1784年、1790年の総選挙で再選した。1769年7月3日、ケンブリッジ大学よりLL.D.の学位を授与された。 ナサニエル・ライダー(英語版)(のちの初代ハロービー男爵)の日記によれば、ブリッジマンは1767年1月第3代グラフトン公爵オーガスタス・フィッツロイ(1768年から1770年までの首相、1767年時点では第一大蔵卿)に叙爵を申請して失敗した。グラフトン公爵内閣期(1768年 – 1770年)では1769年のジョン・ウィルクス当選問題で野党に同調して、ウィルクスを支持するよう投票した。ノース内閣期(1770年 – 1782年)にも野党の一員として行動、シェルバーン伯爵内閣期(1782年 – 1783年)ではフォックス派の一員として、内閣によるアメリカ独立戦争予備講和条約に反対票を投じた。
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